連載
子ども生まれ分かった発達障害 障害者雇用で見つけた「第二の人生」
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。自身が発達障害であることが判明した遠藤さんは、娘が3歳のころ、障害者として新しい仕事をスタートしました。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載9回目です。(全18回)
障害者雇用での就職活動は、僕にとって転機になりました。社会人4年目にして初めて、自分の発達特性を理解した状態で、職業選択ができたのです。
障害者雇用とは、通称「障害者雇用促進法」に基づいて、企業が障害のある社員を雇い入れる義務を持つ制度です。2021年4月現在、民間企業は全社員のうち2.3%以上の障害者を雇用する義務があります。障害者とは主に障害者手帳や療育手帳の所持者のことで、僕は精神障害者保健福祉手帳を取得していました。
障害者に対して企業は「合理的配慮(さまざまなバリアを取り除くための対応)」の提供義務がありますが、自ら障害を説明して入社することによって、配慮を受けやすくなるメリットがあります。
苦手なことを整理し、企業の方々に伝えていくプロセスは、非常に深い学びとなる体験でした。
過去を振り返り、「特性が影響してうまくいかなかった部分はどこなのか」「どう対処すれば組織の一員として力になれるか」を考え、履歴書や面接で真摯に伝えていきました。選考に落ちてショックを受けることも多々ありましたが、立ち向かうべき「敵」がわからなかったかつての自分と比べれば、自己理解が進んでいく喜びのほうが勝っていました。
ある企業の面接担当者から「第二の人生という感じなんですね」と言われたのは、まったくもってその通りでした。発達障害が発覚し、自己理解した上で、初めて現実的で持続可能な働き方を見いだすことができたのです。
僕は、未経験で経理の仕事に就きました。入社前日には「大学生から社会人になるような不安感がある」と記していましたが、結果として僕はそれから3年弱の間、休職せずに勤務を続けることができました。
経理をはじめ、人事や総務といったバックオフィスの求人が、障害者雇用には多くあります。僕はファイリングやデータ入力といった業務に、地道に取り組んでいきました。
そうした補助的な業務は、結婚した頃に「男は大黒柱でなければ」「仕事で成果を出さなければ」と、とらわれていた僕には受け入れがたかったでしょう。
しかし、障害を受容し、安定して働くことを渇望していた僕は、仕事ができることの喜びを強く感じていました。小さなことだとしても組織の力になり、対価として給料が振り込まれるサイクルは、生きている実感につながりました。何もうまくいかず「とてつもなく怖い」と感じていた「社会」が、少しずつ身近な存在になっていきました。
上司には定期的に面談をしてもらっていました。困っていることや不安に思っていることを面談の場で打ち明けられたことで僕のなかに生じていったのは、心理的安全性です。
例えば、空調の音がどうしても気になって、業務に集中できていない時期がありました。「空調の音がすこし気になっているのですが、仕方ないですよね」と上司に話してみたところ、上司が部内の方々に「この上の空調だけ止められるんだっけ?」と尋ね、知恵を借り、僕の頭上の空調だけ止めてもらえたのです。
当時の上司は、発達障害にもともと知識や理解があったわけではなく、いつも僕の個別の問題に、小さなことから対応してくれていました。非常に業務がやりやすく、そんな上司を尊敬していました。運が良かったと思います。
また、「合理的配慮」は企業に提供義務があるものですが、よりスムーズに業務を進めていくためには、配慮を受ける僕自身も一緒になって考えていくことが大事なのだと感じました。
のちに「合理的配慮」とは元来、英語で「Reasonable accommodation」であり、「合理的な調整」とも訳せることを知りました。自分自身のニーズをきちんと伝え、周りの方々に協力してもらいながら、働きやすい環境を構築していこうとしました。
障害者雇用での勤務を続けるなかで、僕はうつになってしまいそうなサインと、サインを見つけたときの回避方法をトライ&エラーで身につけていきました。
僕の場合は、例えば好きな読書の量が減っていると、余裕がなくなっているサインです。
サインに気づくと、勤務時間外に自分の時間を作り、読書をしたり、文章を書いたりしてペースを取り戻す工夫をしました。本田秀夫氏の『自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体』(SB新書)では、「こだわりの対象が異常であった人たちも、安心できる環境が保障されて成長すると、趣味や生活習慣の中にこだわりが埋め込まれていきます」と書かれていました。まさに自分にとっての読書は、そうしたこだわりの対象でした。子育ての時間とも調整しながら、自分のこだわりの時間を守り、うつにならない生活リズムを作っていきました。
また、前述した上司との面談だけでなく、産業医の先生に相談したり、妻に「ちょっと調子が悪い」と情報共有したりすることで、なるべくひとりで抱え込まないことを意識していました。
並行して、僕は簿記の勉強をしました。はじめに3級、次に2級を取得しました。知識が増え、業務に慣れていくにつれて、業務範囲が少しずつ広がっていきました。最終的には、業務として決算書を作ったり、法人税や消費税の計算をしたり、財務分析をしたりすることができました。
得意と苦手をしっかりと整理し、環境に恵まれれば、こんなに力を発揮できたんだ、と自分自身が驚いていました。すっかり失っていた自分自身への信頼が少しずつ生まれていきました。
特性を理解し、トライ&エラーを繰り返していく試みは、仕事だけでなく家庭でも同じでした。
過酷な勤務が続いていた妻は、勤務先を辞めて、負担の少ないパート保育士をすることになりました。収入が下がるとしても、妻が精神的な余裕を持って穏やかに過ごせることはこの頃の家族にとって何よりも重要でした。
また、妻が肩の力を抜いて仕事ができるようになったのは、僕が安定を掴みかけていたことと無関係ではなかったと思います。僕が不安定だったせいで折れられなかった妻に、ようやく緊張を解けさせる時間を渡せたのです。
落ち着いたあと、妻は「もの足りない」と言ってフルタイム勤務の仕事に戻っていきましたが、一時的にパート勤務をしていたおかげで、笑顔を取り戻していました。
一方的に理解を求めるのではなく、妻の都合とすり合わせながら、僕たちはともに「合理的な調整」を図っていきました。上司と僕がしたように、妻とも個別の問題ごとに相談し、解決策をさがし、対処しました。別居しようとしていた僕たち夫婦に足りていなかったのは、合意形成する技術だったのです。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。社会人4年目にASD、5年目にADHDの診断を受ける。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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