連載
圧倒的に働き強い妻が折れた 発達障害の僕が向き合った子育てと家庭
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。娘が2歳半になるころには、自身が発達障害であることが分かり、特性に応じた対応を取り始めた遠藤さん。一方、頼り切っていた妻の方が職場で限界を迎えていました。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載8回目です。(全18回)
26歳で僕の発達障害がようやく発覚し、特性への対処が始まりました。特性は基本的に生まれつきと言われているので、僕は26年間、「丸腰」で社会に出ていたことになります。それは自分なりに長く厳しい時間でした。
娘は2歳半になっていました。できる限りの愛情を注いでいましたが、愛情だけで子育てはできません。子育てに取り組むには、僕にとって特性への理解が必要でした。
一例として、聴覚過敏の問題があります。聴覚過敏とは、周囲の音を過剰に拾ってしまい、聞きたい音とそうでない音にメリハリをつけづらい脳の特性です。生まれたばかりの頃には、泣き止まない娘を抱っこしながら自分も泣いていたことがありました。娘が泣く声だけでなく、テレビやスマホから流れる音、掃除機などの生活音に、疲弊していたのです。
特性を知ったあと、ノイズキャンセリングヘッドフォンを購入しました。このヘッドフォンから流れる音楽で周囲の音を「マスキング」することによって、この問題には対処することができました。
些細なことからひとつずつ紐解いていくと、家族に自分はいらないと思ってしまっていたことや、うつで休職を繰り返していたこと、離婚や別居を考えるほど夫婦関係が悪化していたことに、隠れていた要因が見えてきました。
特性に凸凹があることに気づかず平らにしようとして、空ぶかししてはうつになり、また闇雲に進んでいく。そんなメカニズムがありありと見えてきたのです。
妻は、結婚前から今にいたるまで、保育士をしています。よく知られているように、保育士は子どもたちとその保護者たちに必要不可欠なエッセンシャルワークですが、慢性的な人手不足です。
娘が生後3ヵ月のときには、やはり人手不足だった職場からの要請に応じて、妻は産休・育休から復職していました。もっと休む選択肢もあったと思いますが、責任感の強い妻は働いたのです。
慢性的な長時間労働で、まともな休憩もなく、園の行事の前になると、1日12時間以上働いていた時期もありました。さらに、持ち帰りの書類仕事や制作物などがあるにも関わらず、適正な手当がつきません。
妻の異常な働き方は問題に感じていましたが、僕は自分の体調が安定しなかったために、十分にはサポートできていなかったのでした。
妻はそんな職場でも仕事を続けようとしていましたが、娘が3歳になる頃、ついに限界を迎えました。強くあり続けていた妻でさえ心の折れてしまうような環境が、そこにはありました。
退職の話し合いをするとき、頼まれて僕も同席しました。妻が「退職する」と意思を伝えたあとに慰留され、拒んでいると、役員から罵詈雑言を浴びせられました。
妻に代わって、僕は怒りました。妻のために怒れるんだ、と自分で自分に思いました。僕は異常な働き方やそれまでに受けてきたひどい言動を伝えて、退職の手続きを始める手はずを整えました。
話し合いを経て、妻はこれほどひどい環境で働いていたのか、と愕然としました。これは妻とその勤務先だけの問題ではなく、構造が生み出している社会のひずみだと思います。
妻はそんな状態になるまで、「折れられなかった」のかもしれません。僕のほうが妻を頼ってばかりで、妻は不安定な僕を頼れなかったのだと思います。その点では、妻の窮状を作り出していた社会のひずみとは、僕でもありました。反省しています。
しかし、退職の場面に限っては、全力でサポートすることができたのではないかと振り返ります。社会人としてうまくいかず、妻に負い目を感じていた僕にとって、「借りを返すチャンスだ」と感じていました。
「主人」という呼称があります。僕はかつて、「主人」になりたかったのです。しかし、力不足で「主人」にはなれず、折れてばかりでした。いまでは、「主人」になりたかったのは「男性」「父親」に対する固定概念にとらわれていただけだったとわかります。
妻が退職するときの僕は、かつて「主人」と思い描いていたような「強くて稼げる夫・父」ではありませんでした。パートナーとして、妻が理不尽な扱いを受けていることに単純に怒っただけです。弱くて仕事のできない夫・父であっても、声を上げることができたことは、夫婦にとって転換点になった気がします。
夫婦は、どちらかが「主人」になる“主従”の関係ではなく、互いにサポートし、ケアし合う関係になりはじめました。
妻が落ち込んでいるときには、「ハグしていい?」と尋ねました。夫婦は数ヶ月前まで別居を考えていて、ハグに許可が必要なほど心理的に離れていたのですが、恐る恐るハグをしました。思えば、妻が最初に「仕事を辞めたい」と本音を漏らしたのは、ハグしているときでした。
「寄り添う」とは、どういうことなのか。どれだけ言葉で励まされるよりも、どれだけ本や動画で知識を与えられるよりも、ハグのほうが通じるコミュニケーションがある。そう感じていたのは、僕自身が弱くて脆い自分と向き合う日々を過ごしてきたからです。
それは、僕がうつのときにしてほしかったことでした。「うつになってよかったとは全く思わないが、少しは役に立つ部分もあるのだ」と感じ、それはのちに子育てにも活かされることになりました。
僕は器用でないので、実はこのときほとんど仕事をしていません。発達障害の診断を受けてから、情報収集し、自分の特性理解を進めていた時期でした。仕事をしていなかったからこそ、心に少し余裕ができて、妻をケアする役割がはじめてできたのだと思います。
ただ、収入が非常に少なく、妻に「仕事を辞めることもできる」と言いながらも、将来のことはとても不安でした。
僕は、障害者雇用で就職活動をしていました。診断が双極性障害から発達障害に変わり、特性への対処をすればフルタイム勤務の会社員に戻れると感じたのです。障害者雇用という選択は、自分の障害と付き合っていく上で重要な制度でした。
子育てと仕事の両立は、切っても切れない問題であり続けています。そして、障害者雇用の就職活動と勤務で得られたのは、お金だけでない大切なものでした。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。社会人4年目にASD、5年目にADHDの診断を受ける。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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