連載
#8 #戦中戦後のドサクサ
軍人にあるまじき「タブー」 青年軍医が実行した非常識なアイデア
ひっくり返った世界観を生き抜く方法
昭和20(1945)年8月15日、鹿児島県某所。3人の軍人たちが、先を急いでいました。
「少尉どの! このままでは正午の重大放送に間に合いません!」。青年兵にせかされ、やむなく無人の民家に立ち入ります。手近にあったラジオを付けると、衝撃的な情報が耳に入りました。
日本、敗戦……。青ざめ、所属部隊への帰還を提案する部下たち。しかし少尉から、輪をかけてショッキングな言葉が飛び出します。
「いいや、逃げよう!!」。交戦相手である連合軍の捕虜となれば、殺されるかもしれない。ならば逃亡も致し方なし、と考えたのです。
「でも、脱走兵になるのでは」。驚愕(きょうがく)し、うろたえる部下らに、少尉はおもむろに一枚の紙を差し出します。読んでみると、こんな文章が書いてありました。
「右ノ者 九月一日ヲモツテ中尉ニ任ズ」「同日、東京ヘ出頭スヘシ」。つまり「昇進にあたり、東京に戻ってこい」ということです。なれば、本部に生きて戻ることは任務である――。事前に届いた参謀本部からの命令を、うまく利用するアイデアでした。
青年兵たちの実家は、都内にあります。少尉に恐る恐る伝えると、「従属を命じる」。見事、大義名分が成立です。こうして「逃避行」の幕が開けました。
しかし、そのままのいでたちでは、あまりに目立ちすぎます。3人は軍服や軍刀を捨て、タンスから「拝借」した衣服に着替えることにしました。
ここからが大変です。列車に乗れば、知人に見つかるかもしれません。ましてや、憲兵隊に出合おうものなら、捕まってしまうのは確実です。だから、まずは歩いて県境を越え、熊本まで移動することにしました。
とはいえ、身長180センチ超の少尉が、どう考えても一番人目に付きます。青年兵たちは、そんな本音をおくびにも出さず、夜を徹して走り続けました。
そして闇を駆る3人の姿は、好むと好まざるとにかかわらず、やはり脱走兵そのものだったのです。
今回のエピソードは、大正10(1921)年に生まれた、元軍人の男性の体験談です。本人は20年近く前に亡くなり、岸田さんが遺族から直接聞き取りました。
「少尉の位にある人が、真っ先に逃亡を決断したというのは驚きでした。部下たちと現地を離れ、実家へ帰るのに、抵抗はなかったといいます。判断に影響しているかは分かりませんが、『米軍が鹿児島からの上陸しようとしている』とのうわさもあったそうです」
当時、男性は24歳でした。その後、憲兵や米兵の陰に脅えながら、自らも故郷を目指すことになります。
それまでの世界観がひっくり返った、終戦直後の混乱期。生き抜くためには、「逃げる」という軍人の「非常識」を貫かなければいけなかった……。男性のように、社会の片隅で命をかけていた人々は、数え切れないほど存在したに違いありません。
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