連載
「発達障害」分かって踏み出せた妻との修復の一歩 父親像も変わった
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。うつと休職を繰り返し、娘が2歳になるころ、会社をやめる決断をした遠藤さん。一方、自身の生きづらさの多くが「発達障害」に起因すると分かり、妻との関係修復など、新たな一歩を踏み出します。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載7回目です。(全18回)
「思い当たる節がありすぎて、ゾッとする」
発達障害が特集されたテレビ番組を見て、僕は「自分のことだ」と衝撃を受けました。うつを繰り返し、会社を辞め、人生に絶望していた社会人4年目のある日のことです。
翌朝にはアルバイトがありましたが、発達障害の情報を調べて没入し、気付いたときには朝方になっていました。冒頭の言葉は、当時書いていた日記の一部です。
精神科の通院日を予定よりも早めてもらい、発達障害について主治医に尋ねました。それまで僕についていた診断名の「双極性障害」は、転院前の診断を引き継いでいたものでした。
僕はテレビ番組をきっかけに、関連本やインターネットの情報を集め、思い当たる部分をメモにして診察に持参しました。
主治医は僕の話を聞き、診察履歴と照らし合わせ、「いま断言することはできませんが、発達障害の可能性が高いです」と言いました。この日から通院ペースが週1回に増え、成育歴や診察履歴、困りごとを詳しく検討し、発達障害の可能性を探る診察が始まりました。
のちに知能検査「WAIS-Ⅲ」も受けました。知能検査だけで発達障害かどうかを診断するわけではないそうですが、「言語理解」や「処理速度」などの能力を測ってみると、得意なことと苦手なことの間に20以上の差があり、能力に凸凹があったことがわかりました。
僕は発達障害でした。点が線になってつながりました。社会人になってからずっと「これでいいのか?」と疑問に思いながら、見えない敵に対して徒手空拳で挑んでいましたが、初めて立ち向かうべき敵が明確に見えたのです。
僕の生きづらさの大部分が、「発達障害」で説明できてしまいました。暮らしが表情を大きく変えました。
娘は2歳になりました。「自然」だった娘は、立派な社会的動物に成長していました。
妻の場合とは逆に、娘とは言語コミュニケーションを心がけました。抱っこや肩車といった非言語コミュニケーションは生まれた頃からできていましたが、娘の成長により、言語コミュニケーションが有効になっていたのです。
娘はイヤイヤ期の真っただ中でした。まずは話を聞いて受け入れ、言葉を返す。そうしているうちに、「おむかえパパがいい!」と言葉で示してくれることもありました。
僕は、ふと我に返りました。娘と僕の親子関係は、休んでいた期間が長かったこともあり、ずっと良好だったのです。
「普通の父親」が思い描くような「家族を守る」ことは僕にはできませんでした。心が折れていました。しかし、家族という抽象的な概念ではなく、この妻と娘との具体的な「関係」を守る役割ならできるかもしれない。個別の人間同士として、3人でともに暮らして、少しでも良い影響を与え合えたら良いのではないか、と。
背伸びして、肩に力を入れて作っていた父親像はとうに崩れていました。親はひとまず、子が大人になるまでの20年程度の間、本人のサポートを任されているだけの立場です。
建築に「柔構造」と呼ばれる構造形式があります。揺れを剛(つよ)くはね返すのではなく、受け入れて、自らも柔らかく揺れながら受け流す構造です。僕は、目指す父親像を「剛」から「柔」に変えました。
言い換えれば、ケア役割を主体的に担うことです。この時期も、寝かしつけやお風呂のサポート、保育園の送り迎えをやっていました。娘に対して取っていたケアの姿勢を、さらに妻にも適用し始めました。
発達障害のある自分を受け入れ、家族のケア役割も受け入れることで、歯車がかみ合い始め、視界がスカッと開けてきたのです。
発達の特性にはグラデーションがあり、白か黒かと区別することはできません。また、置かれた状況や環境、人間関係によって、特性の表れ方は大きく変わります。かつての僕はこれらのことをわかっていませんでした。
診断前は、発達障害については浅い知識しかありませんでした。例えば、過去にメディアで見ていた発達障害の当事者には「天才」のイメージがありました。自分は「天才」ではなく、どこか「自分とは遠くにあるもの」と感じてしまっていたため、自分の発達障害に気づけませんでした。
(いまこのようにメディアで発信するときには、自分が発達障害に気づけなかった体験から、できるだけ多様な当事者の姿を届けたいと感じています。本連載も、「発達障害のある父親」の発信が少ないことを踏まえて、マイノリティの立場で発信したいという思いから出発しました)
いつも僕のことで振り回してしまっていた家庭でしたが、次にピンチを迎えたのは妻でした。仕事で追い込まれ、「ブラック」な勤務先を辞めることになったのです。
「なに、借りを返すチャンスは必ず巡ってくる」(『心が雨漏りする日には』青春文庫)ーー。中島らもさんの言葉を僕はすぐに思い出しました。僕は、強くあり続けていた妻の「弱さ」と向き合うことになりました。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。社会人4年目にASD、5年目にADHDの診断を受ける。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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