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連載

#27 帰れない村

原発事故から10年、いまも帰れない故郷 撮り続ける「小さな先生」

荒れ果てた故郷の姿を写真で記録する馬場靖子さん=2020年12月、福島県浪江町、三浦英之撮影
荒れ果てた故郷の姿を写真で記録する馬場靖子さん=2020年12月、福島県浪江町、三浦英之撮影

目次

帰れない村
東日本大震災から間もなく10年。福島県には住民がまだ1人も帰れない「村」がある。原発から20~30キロ離れた「旧津島村」(浪江町)。原発事故で散り散りになった住民たちの10年を訪ねる。(朝日新聞南相馬支局・三浦英之)
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帰還困難区域に指定され、今も住民が住めない浪江町津島地区=朝日新聞社
帰還困難区域に指定され、今も住民が住めない浪江町津島地区=朝日新聞社

「ふるさと」を残さなければ

原発事故が起きた時、旧津島村の元小学校教師・馬場靖子さん(79)は「子どもたちのためにも、『ふるさと』をしっかりと残さなければいけない」と思った。

当面自宅には戻れなくなる。故郷はどんな場所だったのか、どんな人々が暮らしていたのか、かつての教え子たちが思い出せるように。思い付いたのは、写真を撮り続けることだった。

枯れ草に覆われた津島小の校舎の前に立つ馬場靖子さん=2020年12月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
枯れ草に覆われた津島小の校舎の前に立つ馬場靖子さん=2020年12月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影

昨年12月。小型のミラーレスカメラを持って8年間教壇に立った津島にある津島小学校に向かった。放射線量が高く、住民の立ち入りが制限されている「帰還困難区域」にある。

「全然変わってない。目を閉じれば、今でも子どもたちの声が聞こえそう」

喜多方市で生まれた。22歳で教師になり、28歳で農業の夫と結婚。夫の出身地である人口約2千人の津島に移り住んだ。

津島は1956年に浪江町と合併したものの、住民が一つの家族のようになって暮らしている地域だ。家業の畜産を手伝いながら、津島小や浪江小で計20年間働いた。

震災前の津島地区の風景(馬場靖子さん撮影)
震災前の津島地区の風景(馬場靖子さん撮影)

教え子は我が子のように

夫婦には子どもができなかった。だから、教え子を我が子だと思って、一生懸命授業に取り組んだ。

身長143センチ。子どもたちからは「小さな先生」と呼ばれた。小学校の高学年になると、背丈を追い越され、教え子を見上げながら話さなければならない。だからだろうか。多くの子どもが親友のように慕った。

2001年の定年退職後、趣味でカメラを始めた。地元の祭りや農作業の風景に加え、成人式などでかつての教え子の成長を記録する。約300人いる教え子たちがいつか里帰りする時、一緒に写真を見返して笑えるように――。

津島小学校の教員当時の馬場靖子さん(中央)。背が小さく1、2年生の担任がほとんどだった(馬場さん提供)
津島小学校の教員当時の馬場靖子さん(中央)。背が小さく1、2年生の担任がほとんどだった(馬場さん提供)

撮り続けた津島の人たちの姿

そんな夢も原発事故で打ち砕かれた。住民は散り散りになり、誰がどこに避難しているのかさえわからない。東電に就職した教え子もいたが、事故直後、仮設住宅で母親に近況を尋ねると、「みんなに合わせる顔がなく、部屋に閉じこもっています」と告げられた。

避難先の学校で「放射能が伝染する」といじめられた子どもたちがいる。「東電から賠償金をもらっている」と陰口をたたかれた教え子もいる。そんな話を聞く度に、胸が張り裂けそうだった。

津島小の前でたたずむ馬場靖子さん=2020年12月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
津島小の前でたたずむ馬場靖子さん=2020年12月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影

以来、前にも増してカメラを持ち歩くようになった。初めは「国と東電が犯した罪の『証拠写真』を残すんだ」という思いが強かった。でも、そんな思いが徐々に変化していく。

仮設住宅で必死に支え合って生きる住民たちがいる。津島の祭りの文化をなんとか継承しようと、踊りを続ける人もいる。故郷を元の姿に戻して欲しいと、裁判を起こして国や東電に立ち向かう人たちがいる。そんな姿を写真で記録し続けてきた。

震災前の津島地区の風景(馬場靖子さん撮影)
震災前の津島地区の風景(馬場靖子さん撮影)

帰らない村でも「大丈夫と伝えたい」

震災直後、高濃度の放射性物質が降り注いでも、津島の風景に変化はなかった。しかし、年を追うごとに、民家は夏草に覆われ、美しい稲穂が揺れていた田んぼには楊(やなぎ)が林のよう生い茂っていく。

かつての津島はこんな荒れ果てた土地ではなかった。そこには柔らかく、豊かな暮らしが確かにあった。だから今はカメラと一緒に、震災前の津島を写した写真を持ち歩き、出会った人にその姿を伝える。

震災前の津島地区の風景(馬場靖子さん撮影)
震災前の津島地区の風景(馬場靖子さん撮影)

津島は今、住民が1人も住めない「帰れない村」だ。「でも大丈夫」と馬場さんは教え子たちに伝えたい。

「焦らなくていい。みんなのふるさとは、先生がしっかりと記録しておく。あなたたちの故郷は『美しい』。いつか、そう胸を張って思い出せるように」

枯れ草に覆われた津島小の校舎の前に立つ馬場靖子さん=2020年12月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
枯れ草に覆われた津島小の校舎の前に立つ馬場靖子さん=2020年12月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
 

東京電力福島第一原発の事故後、全域が帰還困難区域になった福島県浪江町の「旧津島村」(現・津島地区)。原発事故で散り散りになった住民たちを南相馬支局の三浦英之記者が訪ね歩くルポ「帰れない村 福島・旧津島村の10年」。毎週水曜日の配信予定です。

三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』と、震災直後に宮城県南三陸町で過ごした1年間を綴った『災害特派員』。

南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者
南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者

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