連載
#27 帰れない村
原発事故から10年、いまも帰れない故郷 撮り続ける「小さな先生」
原発事故が起きた時、旧津島村の元小学校教師・馬場靖子さん(79)は「子どもたちのためにも、『ふるさと』をしっかりと残さなければいけない」と思った。
当面自宅には戻れなくなる。故郷はどんな場所だったのか、どんな人々が暮らしていたのか、かつての教え子たちが思い出せるように。思い付いたのは、写真を撮り続けることだった。
昨年12月。小型のミラーレスカメラを持って8年間教壇に立った津島にある津島小学校に向かった。放射線量が高く、住民の立ち入りが制限されている「帰還困難区域」にある。
「全然変わってない。目を閉じれば、今でも子どもたちの声が聞こえそう」
喜多方市で生まれた。22歳で教師になり、28歳で農業の夫と結婚。夫の出身地である人口約2千人の津島に移り住んだ。
津島は1956年に浪江町と合併したものの、住民が一つの家族のようになって暮らしている地域だ。家業の畜産を手伝いながら、津島小や浪江小で計20年間働いた。
夫婦には子どもができなかった。だから、教え子を我が子だと思って、一生懸命授業に取り組んだ。
身長143センチ。子どもたちからは「小さな先生」と呼ばれた。小学校の高学年になると、背丈を追い越され、教え子を見上げながら話さなければならない。だからだろうか。多くの子どもが親友のように慕った。
2001年の定年退職後、趣味でカメラを始めた。地元の祭りや農作業の風景に加え、成人式などでかつての教え子の成長を記録する。約300人いる教え子たちがいつか里帰りする時、一緒に写真を見返して笑えるように――。
そんな夢も原発事故で打ち砕かれた。住民は散り散りになり、誰がどこに避難しているのかさえわからない。東電に就職した教え子もいたが、事故直後、仮設住宅で母親に近況を尋ねると、「みんなに合わせる顔がなく、部屋に閉じこもっています」と告げられた。
避難先の学校で「放射能が伝染する」といじめられた子どもたちがいる。「東電から賠償金をもらっている」と陰口をたたかれた教え子もいる。そんな話を聞く度に、胸が張り裂けそうだった。
以来、前にも増してカメラを持ち歩くようになった。初めは「国と東電が犯した罪の『証拠写真』を残すんだ」という思いが強かった。でも、そんな思いが徐々に変化していく。
仮設住宅で必死に支え合って生きる住民たちがいる。津島の祭りの文化をなんとか継承しようと、踊りを続ける人もいる。故郷を元の姿に戻して欲しいと、裁判を起こして国や東電に立ち向かう人たちがいる。そんな姿を写真で記録し続けてきた。
震災直後、高濃度の放射性物質が降り注いでも、津島の風景に変化はなかった。しかし、年を追うごとに、民家は夏草に覆われ、美しい稲穂が揺れていた田んぼには楊(やなぎ)が林のよう生い茂っていく。
かつての津島はこんな荒れ果てた土地ではなかった。そこには柔らかく、豊かな暮らしが確かにあった。だから今はカメラと一緒に、震災前の津島を写した写真を持ち歩き、出会った人にその姿を伝える。
津島は今、住民が1人も住めない「帰れない村」だ。「でも大丈夫」と馬場さんは教え子たちに伝えたい。
「焦らなくていい。みんなのふるさとは、先生がしっかりと記録しておく。あなたたちの故郷は『美しい』。いつか、そう胸を張って思い出せるように」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』と、震災直後に宮城県南三陸町で過ごした1年間を綴った『災害特派員』。
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