連載
うつ状態から会社を退職 孤立した僕を救ったのは書くことと娘だった
「どうすれば事態が好転するのか」ずっと考えていた
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「どうすれば事態が好転するのか」ずっと考えていた
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。2度の休職を経て会社を辞めた遠藤さん。苦しさを一人抱え込み、「別居合意書」を用意するまで追い込まれてしまいました。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載5回目です。(全18回)
「死にたい」という思いは、近い人にこそ言えませんでした。「自分から離れないでくれ」という脅迫になってしまうと思ったからです。僕はひとりで抱え込んでしまっていました。
そして僕は、死ぬ寸前までの行動をしてしまっていました。一歩間違えていたら僕はいま、この文章を書けていないでしょう。生きて家に帰れたことに心から安堵(あんど)し、震えていた明け方がありました。
娘が2歳になる頃の僕は、復職からたった半年でうつになり、2度目の休職に入っていました。「低め安定」さえ、僕はできませんでした。「低め安定」とは、意欲を抑えて無理をせず、精神状態をちょっと低い程度で安定させるという意味です。「低め安定」は、「父親」として頑張りたい僕にとって、怖い言葉でした。会社に戻っても事態が好転するビジョンは見えません。会社は退職することになりました。
適切な治療を受け、生活を整えれば、うつは必ず回復させられる。しかし、復職してもまたうつや休職を繰り返す。周囲の人に迷惑をかけて、これを一生続けていくのだろうか。どうすれば事態が好転するのか全くわからない。こんなにも、できないとはーー。
1LDKの自宅アパートの小さな脱衣室で、内鍵をかけて、僕は閉じこもっていました。
妻からは「一緒にいられない」と言われていました。僕もこのとき、自分はいない方が妻と娘は幸せになれるだろう、と確信してしまっています。僕が「別居合意書」の草稿を用意し、妻も内容に合意していました。
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。妻には、僕という「はずれくじ」を引かせてしまったことに。娘には、父親が頼りないばかりに、成長を近くでサポートできないことに。
僕は完全に自信を失っていました。毎日、ギュッと絞られるように胃が痛みました。たまに人と話すと、声が震えてしまいます。何をしても、どうにもならない感覚、レールから降りたという感覚、そして生きていく希望が一切見えない感覚。
つらいことが重なって心が孤立しました。居室にいると、後ろめたさや不安や焦燥感があふれてくるので、自分の外を遮断し、暗い脱衣室に逃避していました。
当時は、発達障害ではなく「双極性障害」と診断されていたので、「低め安定」で平日のフルタイム勤務をするのではなく、「元気なときにたくさん稼ぎ、うつのときにしっかりと休む働き方」を模索しようと考えました。そこで、個人事業主兼フリーターの道に進み、「少しでもマシになりたい」と挽回(ばんかい)を試みました。
しかし、スーパーの品出しや居酒屋の皿洗いなどのアルバイトの選考に落ちました。「会社が手続きを代行してくれていた社会保険は、自分でどうやればいいんだろう」「年金はいつどこに払えばいいのだろう」といったことさえわからないまま、丸腰の状態で会社の外に飛び出していました。
なんとかアルバイトとして採用してくれた小さな会社で、人と話すことのない事務の単純作業をひたすら繰り返していました。やればやるほど孤立感は高まり、「自分は何をしているのだろう」と意欲や活力が失われていく感覚にさいなまれました。自分に期待しすぎていたのかもしれません。小さな個人事業も始めましたが、あまりうまくいきませんでした。自分の全てを社会から否定されているような気持ちになりました。
僕の働き方に対して、実家の父は叱咤(しった)激励しました。「家族を持っているのだから、もっと頑張れ。君のためを思って言っている。俺は家族を養って頑張ってきた。愛情を持って育ててきた。だからまだまだやれるはずだ」。言われるほど絶望して、父とは疎遠になりました。
妻は「一緒にいられない」と言っていたように、僕と過ごすのはもう限界でした。「カサンドラ症候群」という言葉があります。医学用語ではありませんが、発達障害(特にASD)のあるパートナーを持つ人が、周りに理解されずに苦しむことを指します。しかし当時はカサンドラ症候群を知らないどころか、僕たちは発達障害にさえ気づけていませんでした。妻はカサンドラ症候群では説明しきれないほど、疲弊していました。
ただでさえ仕事が忙しく、育児もある状況で、夫はうつと休職を繰り返し、何もうまくいっていない。妻の反応は当然だったと思います。家では険悪な空気が流れていました。
僕自身も、誰に頼ればいいか、全くわかりません。インターネットや本で探しても、自分に合う情報や人にたどり着けませんでした。
双極性障害を公表していた作家・中島らもさんの「(家族には)一時的には心配をかけたり負担を与えたりするかもしれないが、なに、借りを返すチャンスは必ず巡ってくる」(『心が雨漏りする日には』青春文庫)との言葉を頼りにしていましたが、何かを返せる気がしませんでした。
発達障害の二次障害として生じたうつ状態にまみれてしまうと、特性の問題だけではなくなってきていました。抗うつ薬の服用などの治療は受けていましたが、状態が悪化するスピードに追いつきませんでした。
僕はこの頃、日記や小説を毎日大量に書いていました。自分の身に起きたことや、そこから派生する空想の世界を書くことによって、苦しい現実から目を背け、人生の終わりを先延ばしにしていました。「今週はただ耐える。そのあとのことは、そのあとに考える」。まさに、書くことによって生き延びていたのです。
そんなひどい暮らしのなかでも、2歳に近い娘とだけは、生まれた直後から継続して信頼関係を築けていました。うつが回復してきてからは、2人でアンパンマンミュージアムに行ったり、広い公園の芝生でピクニックをしたりしました。「もうすぐ離れるかもしれないけれど、いまはまだ娘と一緒にいる」。娘が僕にサンドイッチを分けて、「パパおいしい?」と尋ねてくれることもまた、僕を人生に引き留めてくれました。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。社会人4年目にASD、5年目にADHDの診断を受ける。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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