連載
復職から半年、2度目のうつ病「小さな娘でさえ頑張っているのに…」
心がポキッと折れて、人生で最悪の時期を過ごすことになりました。
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心がポキッと折れて、人生で最悪の時期を過ごすことになりました。
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。一度は復職したものの、半年ほどでうつ病が再発。「小さな娘でさえあんなに頑張っているのに、自分は……」。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載4回目です。(全18回)
育休の終盤には、「リワーク」に週5日フルタイムで通いました。リワークとは、うつなどで勤務先を休んだ人が復職に向けて通う医療プログラムです。プログラムのひとつに、うれしかったことや苦しかったことを自己開示してひとりずつ話す時間がありました。「自分についてこんなに話してもいいんだ」と初めて知った体験でした。管理職をしていた人、定年間際の人など多くの利用者と出会い、多様な経験や価値観に触れました。
安定してリワークに通うことができた僕は、主治医、行政の支援者、会社の産業医、上司、人事部の許可を得て、復職しました。時短勤務から始め、周囲からの言葉かけや配慮を受けながら、徐々に勤務時間を伸ばしていきました。休職中は焦りにさいなまれていたので、ようやく仕事ができることへの喜びでいっぱいでした。
娘は1歳になりました。歩けるようになり、興味の赴くままに動き回って世界が広がっていきます。接していると、僕を見て「パ!」と言い、じきに「パパ」と呼んでくれるようになっていました。
今7歳になった娘は、クラウドの共有アルバムを自分で見て、この頃を振り返っています。そこに蓄積してきた写真や動画には、僕の視点や声がたくさん入っています。育休は想定外でしたが、0歳から時間をかけて信頼関係を築けたことは、今でも僕たちにとって大きな財産となっています。
復職はしたものの、順風満帆とはいきませんでした。子育てではやはり急な対応が求められます。前触れなく熱を出す娘を迎えて病院に行き、夕食、風呂をこなしました。鼻水が年中出ていたので、中耳炎にならないようにこまめに耳鼻科へ。仕事の後に病院に行き、家事・育児をした夜は数え切れません。
時間も体力も追いつかず、食事は、外食やスーパーの弁当ばかりになっていきました。食材の定期宅配サービスに入っていましたが、1週間分を計画して注文する余裕がなくなり、退会しました。体調管理のために習慣化していたランニングや筋トレには、復職してから時間を割けなくなっていきました。
仕事では、いつも不完全燃焼でした。休む前は残業もいとわず成長や給料アップに向けて遮二無二働いていたので、復職後に体力も時間もセーブしながら働くことには戸惑っていました。当時25歳の自分は、「与えられた仕事を無理のない範囲で『こなしていく』ことしかできないのか?」「何を目指していけばいいのだろうか?」と迷ってしまっていたのです。
休職中に主夫を経験した僕でも、「仕事で大きな成果を出したい」という思いから逃れるのは難しいものでした。父親の子育てを研究する巽真理子さんは「職場における〈「一家の稼ぎ主」という男らしさ〉を変革しない限り、父親は〈ケアとしての子育て〉を量的にも実践しようとすればするほど、ジェンダー規範とのジレンマを抱えながら、仕事も子育てもしなければならなくなってしまう」と著書(※)で指摘していました。男性が「家庭進出」するとき、「仕事も家庭も」と二兎を追って無理をしてしまう傾向が一般にあるのかもしれません。
(※)『イクメンじゃない「父親の子育て」現代日本における父親の男らしさと〈ケアとしての子育て〉』(晃洋書房)
ふわふわとした思いで働き続けながら「次に長期休職を繰り返したら後がない」といつも切羽詰まっていました。それでも結果として、僕は復職から半年ほど働いて、うつで2回目の休職をすることになってしまいました。
どこに向かって走ればいいのかわからない。同じところをぐるぐると走っているうちに、走れなくなってしまうーー。ときに気持ち悪くなりながら苦労して飲み続けた双極性障害の薬は、発達障害の自分には意味のないものだったそうです。働き方のプランも自分には合っていないものになっていました。当時の会社のみなさんには、とても申し訳なく思っています。全力で対処しても倒せない「見えない敵」に、打ちひしがれました。
ここまでに発達障害の診断を受けられていたら、2回目の休職は防げたのではないかと今でも後悔しています。のちの診断によると、ADHDの多動性やASDの過集中が躁(そう)状態と捉えられ、発達障害の二次障害としてうつが表れていたとのことです。発達障害と双極性障害は併存している場合もあるそうですが、治療や対処がそれぞれ異なるので、的確な診断は非常に重要です。
いま振り返ると、セカンドオピニオンやサードオピニオンを聞きに行って多角的に診断を受けることもできました。また、SNSを通して当事者と直接コミュニケーションすることもできたでしょう。さらに近年では、参考になる書籍もたくさん出版されました。
ただ、当時の僕は足元の生活にもがいているうちに視野が狭くなり、顔を上げて外を見渡すことができませんでした。
僕は2回目の休職に入りました。服薬や休養によってうつ状態が改善することは一度経験していたので、回復はうまくいきました。しかし、「この先、扱いづらい身体をどう使って生きていくのか」と悩み、立ち止まってしまいました。3ヶ月後までには「復職可」と診断を受けましたが、僕はそれ以降、会社に戻ることはありませんでした。
迷いなく生きている友人たちがまぶしくて、つい自分と比べてしまい、苦しい思いでした。自分の父からは、「親としてもっと頑張れ」と。娘は、保育園の発表会で一生懸命ダンスを披露していました。「小さな娘でさえあんなに頑張っているのに、自分は……」
すっかりすさんでしまいました。休職中には、自分のコントロールが効かずに酒を飲み過ぎてしまい、倒れて救急車で運ばれてしまったこともありました。
父親であり夫なのに、社会になじめない。いろいろな人に支えられて仕事と育児の両立をめざしたのに、失敗を繰り返す。
妻が、保護者でもないのに僕の会社に行って、僕の話をしてくれました。心がポキッと折れて、僕の人生で最悪の時期を過ごすことになりました。自然な流れで、自分の「死」を真剣に考えるようになっていきました。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。社会人4年目にASD、5年目にADHDの診断を受ける。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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