連載
娘の泣く声、妻のため息が怖い…発達障害のパパ、うつ病で現れた異変
「自分はいないほうがいいのでは……」
連載
「自分はいないほうがいいのでは……」
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。「理想の父親」になるためにエネルギーを費やした遠藤さん。ついに、限界を超えてしまう日が訪れました。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載3回目です。(全18回)
仕事帰りの最寄り駅で、僕は自宅とは別の方向にふらふらと歩く夜が増えていました。
ASDの特性で、子どもの頃からひとり遊びを好みました。幼稚園から小学校にかけては集団生活になじめず、登園拒否・登校拒否をしていたこともあります。育ちの過程で周囲の人々と共存していく方法も覚えましたが、今でも暮らしのどこかにひとりの時間がないと、息苦しくなってしまいます。
大人になり、0歳の娘の子育てと仕事に気負っていて、好きだった読書の時間もほとんど失っていました。早めに退勤した日には自宅から離れた小さな古本屋に行き、無意識にひとりの時間を求めて「逃避」していたのだと思います。
布団から思うように出られない朝も増えました。他にも、体重が激増したり、頭痛が出たりと身体にさまざまな異変が表れていました。病院へ行くと、「うつ」と診断されました。うつの場合、こうした身体症状が表れることがあるそうです。
娘が0歳のうちに、僕は会社を長く休まざるを得なくなりました。気負っているうちに、さまざまな発達障害の特性が環境と不適応を起こして限界を超え、ようやく異変に気付きました。疲労に対して鈍感なのは、特性のひとつかもしれません。
後から知った言葉で、トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)というものがあります。トキシック・マスキュリニティとは、「男は家族を守る大黒柱として強くあらねばならない」といった固定概念のことです。
僕は読めない空気を読み、臨機応変な対応のために事前準備を過度に積み重ね、「普通」や「理想の父親像」に近づくためにエネルギーを費やしていました。のちにたくさんの発達障害の当事者と接してみて、こうしたタイプの人は少なくないように思います。苦手だからこそ、カバーしようとして燃費の悪い生き方をしているのです。そして、ゆがみは自らの内に蓄積され、ふとしたきっかけで暴発しまうことがあります。
僕は追い込まれて、逃げ場のない状態になっていきました。この頃から書き始めた日記に「僕のまわりには半径1mのバリアが張られていて、誰もこの中に入って来れないようになっている」と記されていました。
最近見たNetflixのリアリティショー「ラブ・オン・スペクトラム〜自閉症だけど恋したい!〜」で、当時の僕と重なる描写がありました。ASDの当事者であるオリビアは、「透明の箱にいるみたい。皆から姿は見えるけど声が聞こえない。たたいても出られない。一生その箱にいるのは寂しい。誰も出入りできないの」と言います。当時の僕の心境に、言葉が与えられたような気がしました。
「箱」に閉じ込められた結果、計画していた「あるべき父親像」は娘が0歳で早くも瓦解(がかい)していきました。
会社に行けず、家庭のことも何もしていない自分が情けなく、家族が離れて行ってしまうのではないかと思いました。娘の泣く声が怖い。妻のため息が怖い。「こんなことを感じてしまっている自分は父として失格だ」と思い、日々募る悔しさや悲しさを発散できない。すると、感情は僕のなかに閉じ込められて、どう発散すればいいのかわからなくなりました。
妻と娘を布団のなかで動けないまま送り出す自分に失望し、「自分はいないほうがいいのではないか」と毎日考えていました。
しかし今考えれば、うつで強制的にブレーキがかかったことは、僕たち家族の転機でした。
実態は傷病休暇でしたが、制度上は「育児休暇」を使わせてもらいました。長く休んでいると、かたちだけの「育休」は、次第に実態も「育休」になっていきました。
僕は、リハビリのようにして自宅で皿洗いから始めました。布団からほとんど動けない状態が続いていたので、指先と腕を動かせるようになるだけで喜びを感じられました。また、少しでも家族の役に立っていると思えることで、なんとか自分を保てたのです。
回復していくにつれ、担当範囲が広がりました。娘が少し寝た隙を見計らって、皿を洗い、小さな娘の花柄のロンパースを干しました。娘が気管支炎で入院したときには、夜はベッド脇の狭い隙間に寝て、付き添いました。同部屋の子どもが泣き出すとほかの子どもたちも泣き出してしまう大変な状況でしたが、付き添った経験は「家族でいていい」という自信になっていきました。
休みの間、妻は「もっと休んだら?」と言ってくれていました。妻の仕事が忙しく、「もっと休んで家のことをやっていてほしい」と率直に思っていたそうです。「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業に引っ張られていたのは、僕だけだったのです。僕たちは娘が0歳にして、「女は仕事、男は家庭」となりました。娘が初めて寝返りを打った瞬間を、休んでいたおかげで僕は目にすることができました。残業の多い仕事を続けていたら見られなかったかもしれません。
小さなアパートに閉じこもって、生活を支えていく。気持ちのやり場を失ってふらふらしていた僕は、小さな自宅で役割を見つけ始めました。
当時、まだ僕は発達障害の診断を受けられていません。精神科クリニックでは2時間の待ち時間で5分の診察を受け、「双極性障害」との診断を受けました。双極性障害とは、かつて「躁(そう)うつ病」と言われていたように、躁状態とうつ状態を繰り返しやすい障害です。今では、誤診だったとして取り消されているのですが、当時は誤診の影響もあり、発達障害の特性に対処できていませんでした。それがあとにも尾を引くことになります。
ここまでに適切な診断を受けられていれば、どんなに幸せだっただろうといまだに悔しく思っています。僕はどうしたらよかったのでしょう。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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