連載
“普通”の子育ては難しい 発達障害の父がつづる、家族との7年間
「父親になる」と意識するあまり、調和を崩してしまいました。
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「父親になる」と意識するあまり、調和を崩してしまいました。
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。自閉スペクトラム症(ASD)・注意欠如・多動症(ADHD)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。7年前、娘が生まれたあの日は、言葉では表せない感情の涙があふれたーー。小学生の娘、妻との7年間をつづります。(全18回)
小さな産院の薄暗い待合室で、僕はメロンパンを食べていました。
妻が深夜に産気づき、布団から飛び出して産院に来てから20時間以上が経過しています。分娩は翌日の深夜になっていました。「時間のかかるお産になるから」と、僕は分娩室の外で待っているよう、助産師さんから指示されていたのです。
扉の向こうでは、妻が文字通り命をかけて新しい命を産もうとしているというのに、僕はただメロンパンを食べて待っていることしかできないーー。妻へのリスペクトと感謝、そして産むことのできない私の無力さやもどかしさを強く感じました。
あとから、義母が来ました。僕の母と弟も間に合いました。いよいよ生まれるというタイミングは急に訪れ、僕はひとりでようやく分娩室の中へ。「あとちょっとだよ!」と声を掛けて握った妻の手は、汗でびっしょりになっていました。
娘が誕生するまさにその瞬間、頭からするっと出てくるところを僕は見ていました。赤ちゃんは棒状になり、頭蓋骨さえ可変で、肩をすぼませ、初めて外気に触れます。人間から人間が生まれてくるところを目に焼き付け、大きな産声を聴きました。言葉で言い表せないような感情の涙が流れてきました。陣痛の始まりから27時間が経っていました。
現在はフリーライターをしている僕ですが、娘が生まれた時は会社員として勤務し、激務をこなしていました。当時、24歳です。まだまだ右も左もわからない状態のまま、「社会人」になっていくこと、そして「父親」になっていくことに並行して取り組んでいました。
僕には発達障害のASDやADHDの特性があります。しかし当時はまだわかっておらず、ずいぶん燃費の悪い頑張り方をしていたように思います。
勤務先が裁量労働制だったことを活かし、月1回の妊婦健診には仕事を調整していつも同行していました。妻に寄り添いたいという思いもあり、一方では、おなかの中にいる子どもの成長をいち早く見たいという気持ちが大きくあったように思います。僕はそれだけ、子どもが生まれてくることを楽しみにしていました。いわゆる「プレパパ」向けのアプリをスマートフォンに入れて、「赤ちゃんは今頃、腎臓が完成している頃か」などと人体の不思議を実感したものです。
出産の前々日には、妻と一緒に川沿いを散歩していました。すでに2人で決めていた名前で、おなかの中の赤ちゃんに話しかけました。川は穏やかで、冬でも歩いているとホカホカしてくるような、よく晴れた日でした。
ただ、穏やかな季節とは裏腹に、僕の心は子どもを迎えることに追いついていなかったのかもしれません。
僕は、妊娠発覚から出産までに体重が10kg以上も増えていました。周囲からは「幸せ太りだね」と言われていましたが、今振り返れば、調和を崩してしまっていた結果だと思います。ただでさえアンバランスな発達である上、「父親になる」と意識するあまり、力んで仕事をしていたため、深夜まで目いっぱいの残業をして不規則な食事を摂ったり、運動をする時間を失ったりしていました。
余裕がなくなってくると、発達障害の特性も悪い方向に表れやすくなりました。
妻が妊娠中のある夜、互いの仕事から帰る時間が合ったので、待ち合わせをして一緒に帰宅することにしました。疲れていた僕はビールを買い、道路で歩いて飲み始めてしまっていました。
ふと振り向くと、妻は静かに泣いていました。妊娠前には、お互いに1日の仕事が終わると一緒にお酒を飲むこともありましたが、当然ながら妊婦はアルコール飲料を飲みたくても飲めません。身体の変化や不調があるなかで仕事をする疲労や、僕の配慮の無さへの悲しさがあいまって、妻の涙が出たのだと思います。相手の立場に立って考えるのが苦手な、僕のASDの特性の表れだったのかもしれません。
発達特性の影響もあり、大学生の頃に一度、うつ状態になってしまった経験もありました。しかし当時はまだ精神科に行くという発想がなく、医療とつながれていませんでした。妻にもうつのような状態の話はしていましたが、自分もよくわかっていなかったため、十分に共有できていたわけではありませんでした。
このように気持ちとしては高揚している一方で、客観的にはとても未成熟な状態のまま、僕は父親になっていきました。
もっと自分のことを理解できてから、子育てに入れれば良かったのだろうと思います。
その一方でモヤモヤするのは、現代の日本で“普通に”子育てをしていくのは難しいと感じることです。つまり、社会人として一人前になり、結婚し、仕事をし続け、貯金を準備し、両家と良い関係を築き、そして初めて「子育て」をするというモデルは、今や「普通」とは言い難いのではないか、とーー。
例えば、ひとり親でも安心して育てられる制度や、性別に関わらず安心して仕事を一度休める雰囲気、そして僕のように障害があっても周囲と関わり合いながら子育てに取り組める土壌を、「いま」という時代が求めているとも言えるかもしれません。「普通」からはみ出してしまうのが多数派だとしたら、このねじれた時代に、子育てのあり方を見直す必要があるのではないでしょうか。
そのなかで、僕たち「父親」がしなやかに子育てを担っていくことは、ひとつの重要なファクターになると、実体験から僕は感じています。
娘が生まれる直前に食べていたメロンパンのお店は、7年経った今、潰れてしまってもう存在しません。初めてのひ孫の誕生を大いに喜んでくれていた義祖母は、2020年の初めに鬼籍に入り、僕たちは悲しみに暮れました。“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず”と鴨長明が書いたのは鎌倉時代ですが、令和の現代もまた、とてつもない速度で流れていっています。
濁流に呑まれながらも、現在娘が小学校に入学するまで苦闘してきた僕たちの歴史を、これから紹介していきます。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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