連載
#13 帰れない村
被災地の墓石店が見続けてきた原発事故 墓の復旧・新築を経て今は
悩んだ末の墓じまい「立派な行為」
「墓石の仕事に携わっているとね、よく見えるんですよ。震災や原発事故がどういうものか」
末永一郎さん(64)はそう言うと、悔しそうに「ふっ」と息を漏らした。かつては旧津島村の手七郎集落で石材業を営んでいた。今は約35キロ離れた大玉村で家業を再開している。
1977年、父と開業した「末永石材工業」。阿武隈山地から御影石を切り出し、墓石へと加工する。津島で採れる「白御影」は光沢に優れ、名古屋圏からも注文があった。約10社あった石材店も、原発事故で故郷を追われた。
震災後、年を経るごとに仕事の内容が変わった。当初の2、3年は、お墓の復旧に忙しかった。激しい揺れで墓石が倒れたため、重機を使って、それらを元の状態へと直していった。
4、5年すると、津波で身内を亡くした遺族が新たにお墓を求めるようになった。主に沿岸部で暮らしていた住民で、末永さんも20以上のお墓を納めた。
そして震災から5年が過ぎると、「墓じまい」の注文が多くなった。故郷は帰還困難区域内にあって帰れない。避難先への定住を決めた避難者は、新たな土地に家を建て、先祖が眠るお墓を移す。古いお墓は更地にするが、墓石は放射線量が高くて持ち出せないため、20以上の墓石が末永さんの旧作業場に積み上げられたままになっている。
「墓じまい」は、故郷に戻らないことの意思表示でもある。「(集落の行政区長でもある)末永さんにとって、それは寂しいことではないですか」と問うと、末永さんは首を振った。
「いえ、そうは思いません。むしろ立派な行為です。誰もが悩んだ末に決断したことなのですから」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
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