お金と仕事
娘と見た「おかいつ」でまさかの展開 歌のお兄さん誕生前の驚き
「どんないろがすき」
「あか」
「あかい いろがすき」
そう口ずさんだことがある人は、多いはず。この「どんないろがすき」は、NHK「おかあさんといっしょ」(おかいつ)で第7代歌のお兄さん(1985~93年)として知られるシンガー・ソングライターの坂田おさむさん(67)が、番組に出演していた頃に作詞作曲しました。子どもたちに人気の曲を今まで500曲以上生み出している坂田さんですが、NHKに関わり始めた当初、本人も「びっくりした」という出来事がありました。
1952年生まれの坂田さんは北海道旭川市の出身。小学生高学年だった当時、音楽好きだった年の近い親戚の影響で、文化放送系のラジオ番組「9500万人のポピュラーリクエスト」(当時)を毎週のように聴いていました。
「司会の人が『イギリスですごいバンドが出ましたので、もう少ししたら発表できます』と言っていて、何だろうと思っていたのが、ビートルズでした。『すごいのやってるぞ』って、仲の良い同級生みんなで聞いていました」
坂田さんが歌詞をカタカナで書き出しては、みんなで覚える。クラスのお誕生会で、ほうきをギター代わりに「エアー系」バンドを結成し、「抱きしめたい」などを熱唱しました。
「全然ウケなかった(笑)。でも、やってみたかった。音楽をやったら、人に喜ばれそうだってことが、だんだんわかっていくきっかけでした」
同じ頃、父親が「そんなに弾きたいなら習ったほうがいい」と、坂田さんを旭川市内のギター教室に連れて行ってくれました。ただ、習ったのはクラシックギター。「やりたいのはこれじゃあないんだけど」と思いながらも通い、基礎を習いました。中学では、「学校でギターを弾けるから」と、マンドリンクラブに入ってクラシックギターを担当しました。
一方でバンドへのあこがれは強いまま、「テストで良い点をとったら」と父親に懇願して、エレキギターを購入。友人とバンドを組みました。ビートルズが来日した際はテレビの画面を撮影し、友だちと写真を持ち寄って、「良いね。写ってるねって、あこがれていました」。
その後、明治大学政治経済学部に進学。すでに自分で作詞作曲もしていました。
そんなとき、あるコンテストにギター弾き語りのオリジナル曲で出場した際、坂田さんの歌を聴いていた「宿屋の飯盛」という当時セミプロバンドのメンバーから、エレキギターとして誘われ、加入しました。学生は坂田さんだけだったといいます。大学卒業前にはプロとしてレコードデビューも果たしました。
同級生の多くは就職先が決まるなかで、バンドの道に進むかどうかは「大揺れ」でした。デビューしたとはいえ、全国ツアーで回った故郷の北海道では、苫小牧の駅前でチケットを手売りしていました。
当時電話で話した母親からは「本当にやっていけるの?」と聞かれましたが、「でも、やりたいんだわ」と答えました。デビューが重なったこと、子どものころからのあこがれが決断を後押ししました。
しかし、大学卒業後まもなく、「自分が作った曲を自由に歌いたい」と、バンドを脱退。その後の2年ほどは、自分でデモテープを作って、レコード会社を回って売り込む日々が続きました。「だいたいは、けんもほろろでした」。
この間の生活費はアルバイトで稼ぎました。電信柱のはがれかけたチラシをモップで清掃したり、交差点などで車や人の流れをカウンターで数える交通量調査をしたり、いろいろな仕事を経験しました。
その後、レコード会社回りが功を奏し、1977年に「BYE-BYE東京」という曲でシンガーソングライターとしてプロデビューを果たしました。当時は「ニューミュージック」と言われ、レコード店ではフォークの棚に置かれていたことが多かったそうです。
1980年に結婚し、82年には長女(現在シンガー・ソングライターとして活躍する坂田めぐみさん)が生まれました。「当時の僕はあんまり仕事がなくて」、夕方は自宅でめぐみさんと一緒に「おかあさんといっしょ」をテレビで見ていました。人形劇は「にこにこ、ぷん」。じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろりが登場し、「娘はぴっころがお気に入りでした」。
当時の歌のお兄さん、歌のお姉さんも、視聴者として見ました。「一生懸命歌っているなかで、スタジオで子どもが泣いたりしていて、大変そうだなって思っていました」
そんな頃、仕事で知り合った作詞家から、「坂田くん、曲を作っているんだったら、NHKに持って行ったらいいんじゃないの?」と声をかけられたといいます。この作詞家は当時の「おかあさんといっしょ」にも関わっていました。坂田さんは自らNHKに電話。担当の女性ディレクターに会えることになりました。
子ども向けの曲を考えていた坂田さん。ただ、前日に作った「フラッシュライト」という曲の出来がよく、その曲をディレクターに聞いてもらいました。
失恋ソングでした。
その場でのやりとりを、坂田さんに再現してもらいました。曲を最後まで聴いたディレクターはヘッドホンをおいて、こう切り出したそうです。
ディレクター 「これをどうしろと言うわけ?」
坂田さん 「ですから、こういうタイプの曲も作れます」
ディレクター 「この歌はだめよ、子どもの席では歌えない」
坂田さん 「そりゃそうですよね」
ディレクター 「あなた子ども生まれたって聞いたけど、子どもの生活を見て、思うこともあるでしょう。そういうことを書き留めて、シンガー・ソングライターなんだから工夫して作ってみて」
坂田さんはその後、めぐみさんをベビーカーに乗せて春の神田川沿いを散歩していたときの様子をもとに数曲作りました。
曲をうけとったディレクターは「わかりました、預かりましょう」と言い、一部の曲は当時の歌のお兄さんとお姉さんがレコーディングもしました。しかし、最終的に採用されたかどうかはNHKから聞いていなかったそうです。
その数カ月後、いつものようにめぐみさんと「おかあさんといっしょ」をテレビで見ていると、ある曲が流れ始めました。
それは、坂田さんが提供したうちの一曲。現在も人気の「はるのかぜ」が放送された瞬間でした。
「たまたまNHKから放送予定日を聞いていなくて。本当に採用されたとも知らなくて、すごいびっくりした。『めぐみ、これねえ、パパが作った歌なんだよ』って話したら、『ふうーん』って。あんまり反応はなかったね(笑)」
おかあさんといっしょに初めて作った歌は「はるのかぜ」と言う作品でした。
— 坂田おさむ (@sakata_osamu) March 19, 2020
娘(坂田めぐみ)をうばぐるまに乗せ神田川沿いを散歩しながら作りました。自分が歌のお兄さんになる(なれる)なんてこれっぽっちも考えなかった頃でした。あれから四半世紀以上はと~っくに過ぎたんだ。懐かしいな。
こうして、NHKに「作詞作曲家」として関わるようになった坂田さん。
ある日、「おかあさんといっしょ」のディレクターから「次のお兄さんを決めるオーディションがあるから受けてみないか」と誘われることになったのです。
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