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お金と仕事

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プロで活躍できず打撃投手へ 一歩引いて見つけたセカンドキャリア

「できない人の気持ち」胸に選んだ道は…

元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん。写真は、2軍時代=本人提供
元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん。写真は、2軍時代=本人提供

目次

元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん(38)は、26歳で戦力外通告を受けました。その後、バッティングピッチャーを務める中で、「自分と同じように伸び悩む高校生の力になりたい」と思い、教員を目指すようになりました。現在は高校の体育教師兼野球部監督となった染田さん。セカンドキャリアにおいて、「“自分マイナス野球”をした時に、何が残るかが大切」と話します。(ライター・小野ヒデコ)

 

染田賢作(そめだ・けんさく)
1982年6月奈良県宇陀市生まれ。2001年奈良県立郡山高校卒業後、同志社大学経済学部に入学。04年横浜ベイスターズからドラフト会議で指名を受け、入団。08年、26歳の時に戦力外通告を受けその後バッティングピッチャーを務める。10年に野球を引退後、同志社大学大学院総合政策科学研究科に入学。15年に京都府立乙訓高等学校の教諭となり、19年4月から京都府立西城陽高等学校で教鞭をとりつつ、硬式野球部の監督を務める。
 
元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん。現在は、京都府立西城陽高校で保健体育の教師と野球部監督を務めている。
元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん。現在は、京都府立西城陽高校で保健体育の教師と野球部監督を務めている。

「悩める高校生の役に立ちたい」

<戦力外通告後、打撃投手に。自分自身や野球について、客観的に見る機会を得られた>

2008年、26歳で横浜ベイスターズから戦力外通告を受けました。試合出場機会が明らかに減っていたので、クビになったのは藪から棒ではなったのですが、やはりショックでした。

その後、バッティングピッチャー(打撃投手)に、声をかけてもらいました。試合前などにバッターが気持ちよく打てる球を投げるのが仕事なので、求められる力は送球の「正確性」です。

私が選手をクビになった原因の一つが、「ボールのコントロール力のなさ」でした。なので、正直この仕事は自分には向いていないというのが最初からわかっていました。でも、その時第一子が妻のお腹にいた時だったので、無職になることにリスクを感じ、ありがたく受けることにしました。

バッティングピッチャーをする上で、自分自身を一歩引いて見ることができことは良い機会になりました。その中で、投げ方がわからずもがいていた自分を振り返って、同じように悩んでいる高校生の力になりたいと思う気持ちが芽生えました。

そしてバッティングピッチャー2年目で、契約が打ち切りとなりました。選手時代の戦力外通告とは異なり、今回は予想をしておらず、驚きと焦りが募りました。

ドラフト指名されて宮本四郎スカウトから帽子をかぶせられる染田賢作さん。右は吉川博敏・同志社大監督=2004年11月17日、京田辺市で
ドラフト指名されて宮本四郎スカウトから帽子をかぶせられる染田賢作さん。右は吉川博敏・同志社大監督=2004年11月17日、京田辺市で 出典: 朝日新聞社

高校時代の恩師に助言を求める

<不向きと感じていた打撃投手の仕事。次は自分に向いていることをしようと思った>

「向いていない」と思ったバッティングピッチャーを選択した結果、案の定、長くは続きませんでした。今後のキャリアを考えた時、次は自分の好きなこと、向いていることをしようと心に誓いました。

進路相談にいったのは、郡山高校時代にお世話になった野球部監督の森本達幸さんと、同じく郡山高校野球部先輩でプロ野球コーチをしていた米村理さんでした。

森本監督からは教師の道を進められ、米村コーチには学校の野球部の指導者になれと後押しをしてもらいました。

そこで、教育免許をとるために、母校の同志社大学経済学部で教職課程を履修することにしました。同時に、キャリアアップを目指して同志社大学大学院にも進学しました。

当時、子どもが小さかったのですが、家族のサポートもあり、無事に教職も大学院も修了することができました。教職採用試験にも通り、晴れて教師になったのが32歳の時でした。

守備練習でバットを手にノックをする森本達幸監督=2009年6月28日
守備練習でバットを手にノックをする森本達幸監督=2009年6月28日 出典: 朝日新聞社

「野球をとった時に何が残るか」

<初任地の高校で野球部顧問に。野球以外の指導の大切さも学んだ>

初めての赴任先は京都府立乙訓(おとくに)高校。同時期に、同い年で教職10年目の先生も赴任してきました。その先生は、野球部監督の経験があり、今回も野球部監督に就任。私は、野球部の顧問になりました。

その先生が教えるのが上手だったんですね。私はピッチャー以外について教える術がなかったので、野球全般から細かい部分に至るまでの指導法を勉強させてもらいました。

同時に、野球以外の指導についても学びました。今後社会人になったときに必要な力や人柄など「野球をとった時に何が残るか」の大切さを知ったのはこの時です。挨拶には厳しかったですし、勉強を疎かにしていたら練習をさせないなど、学校生活ありきの指導でした。

そして、2018年に野球部初の春の甲子園という全国出場を果たしました。出会った時はまだまだ中学生の雰囲気だったのが、3年後、心身ともに立派になった姿を見るのは感慨深いものがありました。

第90回選抜高校野球の開会式で行進する乙訓の選手たち=2018年3月23日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場、内田光撮影
第90回選抜高校野球の開会式で行進する乙訓の選手たち=2018年3月23日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場、内田光撮影 出典: 朝日新聞社

昨年の2019年4月、京都府立西城陽高校に赴任となり、初めて野球部の監督になりました。教える上での柱は、「野球は一つの道具」ということ。勉強も同じことが言えます。野球がうまかったり、勉強ができたりするのが全てではなく、その道具を使って何を得たかが大切だと考えます。

今の日本の社会は、野球などのスポーツより勉強の方が重要視される傾向があると感じています。でも、どっちが大事というより、どちらも自分を磨くためには必要な要素という考えを浸透させたいと思っています。

そのスポーツに全力を注ぐ

<「元プロ野球選手」の肩書は役立たず。自分にしか語れない”失敗談“を強みに>

野球一色だった人生から先生になり、痛感することは「元プロ野球選手」という肩書は何の役にも立たないということ。でも、野球人生で経験した“失敗談”を伝えることは、私にしかできないことだと思っています。

私は幼少期からもがき続け、プロ野球選手時代の最後は、ストライクすら入らなくなったほどです。“できない人の気持ち”は、痛いほどわかります。「なんで失敗したか」、「なんで自分はあかんかったか」、それを生徒には伝えています。

教員になってから本をよく読むようになったという染田さん。愛読書は喜多川泰さん著作の『手紙屋』。「先生になってからも『勉強をすること』を大事にしています」
教員になってから本をよく読むようになったという染田さん。愛読書は喜多川泰さん著作の『手紙屋』。「先生になってからも『勉強をすること』を大事にしています」

若手アスリートに伝えたいことは、二つあります。一つは、読書。私が後悔しているのは、本を読んでおいた方がよかったということ。もっと早くに野村克也さんの著書を読んでいたら、人生もう少し違っていたかもしれないと思うことがあります。

もう一つは、“自分−(マイナス)野球”をした時、何が残るかを考えてほしいということ。野球のセンスだけで生きてきた人は、野球がなくなった時に苦労すると思います。野球を通して何を学び、どれだけ自分を磨いてきたか。それを理解していたら、極論、野球なり他の競技なり、そのスポーツだけしかしてこなかったとしても、大丈夫だと思っています。

セカンドキャリアを、「あかんかったときのためにこうしておこう」とは考えず、今そのスポーツに全力を注ぐ。それが結局、セカンドキャリアにつながる。スポーツでの学びを武器に、次のキャリアを築いていってください。

【前編】たいしたことがなかった私がプロ選手に 登板2回で得た〝後悔〟 元横浜投手、染田賢作さんのセカンドキャリア
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