MENU CLOSE

お金と仕事

たいしたことがなかった私がプロ選手に 登板2回で得た〝後悔〟

元横浜投手、染田賢作さんのセカンドキャリア

元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん。4年間プロ選手として在籍し、公式戦出場は2回。写真は、2軍時代=本人提供
元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん。4年間プロ選手として在籍し、公式戦出場は2回。写真は、2軍時代=本人提供

目次

身長約160センチ、50m走8.2秒、急速104キロ――。「中学時代、チームで1番野球が下手だった」と話すのは、元横浜ベイスターズ投手で現在は高校教諭の染田賢作さん(38)です。“野球劣等生”から一転、二つの転機をきっかけにプロ野球選手になるも、一度も実力発揮出来ないまま、戦力外通告を受けてしまいます。「上手い下手ではなく、自分に甘かった」。10年以上経った今、その理由を染田さんは振り返ります。(ライター・小野ヒデコ)

【PR】指点字と手話で研究者をサポート 学術通訳の「やりがい」とは?

 

染田賢作(そめだ・けんさく)
1982年6月奈良県宇陀市生まれ。2001年奈良県立郡山高校卒業後、同志社大学経済学部に入学。04年横浜ベイスターズからドラフト会議で指名を受け、入団。08年、26歳の時に戦力外通告を受けその後バッティングピッチャーを務める。10年に野球を引退後、同志社大学大学院総合政策科学研究科に入学。15年に京都府立乙訓高等学校の教諭となり、19年4月から京都府立西城陽高等学校で教鞭をとりつつ、硬式野球部の監督を務める。
 
元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん。現在は、京都府立西城陽高校で保健体育の教師と野球部監督を務めている。コロナ禍、オンライン取材に応じてくれた。
元横浜ベイスターズ投手の染田賢作さん。現在は、京都府立西城陽高校で保健体育の教師と野球部監督を務めている。コロナ禍、オンライン取材に応じてくれた。

受動的から主体的に変わった練習姿勢

<練習を積んでも野球が上達しない日々。自分のことを劣等生だと思い込んでいた>

野球を始めたのは父の影響です。父は野球をしたことがなかったのですが、野球好きが講じて、5歳の私に野球を教えてくれるようになりました。「キャッチボール」レベルではなく、アップから基礎練習まで1日3時間みっちり指導されました。私は父がとても好きだったので、素直に言うことを聞いて練習に励んでいましたね。

中学時代は少年野球団に入っていたのですが、チーム一下手くそでした。当時、身長は160センチあるかないかで、50mは8.2秒、球速は104キロ。

これらは小学生レベルの数値です。今となっては、野球が下手な理由は身体能力がなかったからだとわかるのですが、当時はいくら練習しても野球が上手くならない劣等生だと思い込んでいました。

スポーツより勉強が好きだったので、受験勉強に励み、甲子園に出場している奈良県立郡山高校に進学しました。硬式野球部に入部し、立てた目標は「ベンチ入りをすること」。本当はピッチャーをしたかったのですが、入部時は自分から言い出す自信はなく、ポジションはサードになりました。

小学校時代の染田さん。「私の体の柔らかさは、幼少期に父が柔軟をよくさせていたことが影響しています。柔軟性が高いことはスポーツするうえで役立ちました」=本人提供
小学校時代の染田さん。「私の体の柔らかさは、幼少期に父が柔軟をよくさせていたことが影響しています。柔軟性が高いことはスポーツするうえで役立ちました」=本人提供

一つ目の転機が訪れたのは高1の時です。中3から高1の間に、身長が20センチ伸びました。その結果、球のスピードも上がり、自分でも成長を感じるようになりました。ピッチャーへの憧れは変わらなかったので、サードから毎回全力で送球をしていく中で、肩が徐々に強くなっていきました。「ピッチャーになりたい」という強い思いが、行動に表れた結果でした。

幼少期から中学時代は、練習のわりには成長を感じることができなかったのですが、それは野球を「受動的」にしていたからだと思います。高校時代に成長できたのは、「主体的」に練習をしていたから。その原体験が野球生活において、大きな心の変化へとつながりました。

小学校時代は、サッカーもしていた染田さん(手前右)=本人提供
小学校時代は、サッカーもしていた染田さん(手前右)=本人提供

「どうしたら成長できるか」を掴む

<「これから!」という時の怪我。ボールを投げられなくても、自主トレに励んだ>

二つ目の転機が訪れたのは、大学1年生の時です。同志社大学に進学したのですが、二つ上の先輩に、元東北楽天ゴールデンイーグルスの監督の平石洋介さんがいました。その平石さんが作ったメニューは本当にしんどいものでした。

運動量がとにかく多い。たとえば、準備運動にある「伸脚」の膝を深く曲げる方を往復50回するというトレーニングもあったのですが、翌日は歩けないほどの筋肉痛になりましたね。

血を吐くほどの練習を積み、1年生の冬を超えてから突然、投げる感覚が軽くなったことに気づきました。それが、「こうやったらうまくなる」と実感した瞬間でした。球速は140キロまで伸び、自分で成長を感じました。

「これからだ!」と思った矢先、大学1年の3月に利き腕の右肘を痛めて、手術することになってしまいました。うまくなるコツを発見した直後だったので、はがゆく悔しい気持ちでいっぱいでしたね。

でも、そこで初めて自主的に練習をするようになり、ジム通いも始めました。ボールは投げられないけれど、グラウンドでは日々自主トレに励みました。

大学2年11月、半年以上ぶりに試合に出場して投げたところ、なんと球速は145キロになっていました。怪我をしたにもかからず、練習方法を工夫して出来る限りの努力をした結果、ちゃんと力がついていたんです。

この「どうしたら成長できるか」を掴んだことが、たいしたことがなかった私がプロ選手になれた要因です。プロ野球選手には、幼少期からエースだった人が多い中、私は試行錯誤しながらレベルアップしてきました。

それは、野球がうまくなりたいともがいている人、思うようにいかず思い悩んでいる人の気持ちがわかるということ。この一連の経験は、現在、高校野球の監督をする上で役立っていることの一つです。

同志社大学時代の染田さん。「試合前、相手選手のアップなどを見て、その日のコンディションや特徴を捉えていました。マウンドでは『このファールの打ち方だったら、次の球で抑えられるな』という感覚があり、それ当たることが多かったです」=本人提供
同志社大学時代の染田さん。「試合前、相手選手のアップなどを見て、その日のコンディションや特徴を捉えていました。マウンドでは『このファールの打ち方だったら、次の球で抑えられるな』という感覚があり、それ当たることが多かったです」=本人提供

敗因は「自分への甘さ」

<念願のプロ野球選手になるも、試合に出られない日々が続いた。4年目で戦力外通告を受ける>

大学4年生の夏、秋季リーグでMVPを受賞したり、大学日本代表に選ばれたりと、大学3年の時はプロになれる確率は0%だったのが、一気に100%近くまで高まりました。

2004年に横浜ベイスターズに指名をされた時はうれしかったですね。その一方で、プロとしてやっていける自信は、それほどありませんでした。

結果から言うと、4年間プロ選手として在籍し、公式戦に出場したのは2回のみ。1年目の1試合と、3年目に1試合です。納得のいく球が、一球も投げられないまま戦力外通告を受けました。学生時代のピーク時の球を、再現できないまま終止符を打たれてしまい、振り返ると後悔しかありません。

横浜ベイスターズ時代の染田さん。その後、2軍選手として所属をしていた。「プロ野球選手として続けたい気持ちはもちろん強いですが、プロは『戦力外通告』と隣り合わせです。続けたくても自分の意思で決められないのが現実です」(染田さん)
横浜ベイスターズ時代の染田さん。その後、2軍選手として所属をしていた。「プロ野球選手として続けたい気持ちはもちろん強いですが、プロは『戦力外通告』と隣り合わせです。続けたくても自分の意思で決められないのが現実です」(染田さん) 出典: 朝日新聞社

なぜ思うようなプレーができなかったかと言うと、プロになって1カ月で体重が10キロ増えたことが元凶でした。食事は栄養士の方が計算されたメニューなのですが、その量がハンパないんです。

どんぶりご飯、味噌汁、主菜とサラダ、大皿のサラダ、副菜2つ、そこに麺類1人前がついて1食分でした。学生時代、食べてもなかなか体重が増えなかったので、体が大きくなるのはいいことだと思い込んでいたんですね。

でも、実際はそこに筋力が伴っていませんでした。要は「太り過ぎ」になっていたんです。そのため、思っているより球が伸びず、結果的にどうボールを投げていいかわからなくなってしまいました。

それでも、学生時代のように、練習だけでも死にものぐるいでしていたら、筋力はついていき、コンディションがよくなっていったかもしれません。でも、投げ方がわからなくなって、なんとなく練習で自分を追い込めなくなってしまいました。1番の敗因は、野球の上手い下手ではなく、自分に甘かったことでした。

その気づきは、教師になった今も自分の中で生き続けています。

【後編】プロで活躍できず打撃投手へ 一歩引いて見つけたセカンドキャリア 「できない人の気持ち」胸に選んだ道は…

関連記事

PICKUP PR

PR記事

新着記事

CLOSE

Q 取材リクエストする

取材にご協力頂ける場合はメールアドレスをご記入ください
編集部からご連絡させていただくことがございます