連載
#14 平成炎上史
炎上したらすべて「抹殺」 ネットで暴走するキャンセル・カルチャー
私たちにとって最大の犠牲者は……
問題発言や不祥事が起きると、相手の言論が発表された記事や媒体など発表の場所そのものを破壊する――現在では随所で見受けられるようになった〝過激な文化〟は、すでに平成の時代に胎動し始めていました。それを考える契機と言えるのが、2018年(平成30年)に休刊(事実上の廃刊)になった『新潮45』をめぐる騒動です。自分の視界から消すことだけにとらわれた時、本当に犠牲になるのは何か。スマホの世界で暴れまわる「キャンセル・カルチャー」について考えます。(評論家、著述家・真鍋厚)※敬称略
発端は、自由民主党の衆議院議員である杉田水脈(みお)が、2018年8月号に寄稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」という論考でした。
「彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり『生産性』がないのです」という箇所が物議を醸すと、『新潮45』は10月号で「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という7人の書き手による特集を組みます。
特集では、文芸評論家の小川榮太郎が「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という論考で、SMAGなる造語(サディズム、マゾヒズム、尻フェティシズム、痴漢の略)を掲げて、「同性愛は全くの性的嗜好ではないか」「痴漢が女性を触る権利も社会は保障するべきではないのか」などと論じ、批判が殺到しました。
発行元の新潮社が特集の内容に問題があったことを認める社長名義のコメントを発表し、9月25日には休刊を発表する異例の事態に発展しました。
小川論文に対しては、そもそも保守層の読者向けに書かれていた事情もあり、LGBTという概念について「私は拒絶する」「馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが」と前置きするなど、最初から炎上を狙っていたと勘ぐってしまうスタイルで記述されていました。多くの識者も、そのような論文の特殊性については指摘をしていました。
しかしながら、これがボイコットへとつながることで、別の様相を呈してきたのです。
『新潮45』だけではなく新潮社の他の媒体まで不買を呼び掛ける動きが広がりました。ソーシャルメディア上で即時廃刊を訴える投稿をする書き手も現れ、それに同調する人々が続出しました。
そのロジックはこうです。『新潮45』が廃刊するまでは新潮社の本は買わない。新潮社はそのプレッシャーにより廃刊せざるを得なくなるはずだ――。
実際に新潮社の書籍を棚から撤去した書店も出てきました。このような〝包囲網〟が作用したこともあり、新潮社は『新潮45』を休刊するに至りました。
前提として「『杉田水脈』論文」や「小川論文」には、筆者自身、不適切極まる記述と事実誤認が含まれていると考えます。その内容が問題であることは、言うまでもありません。
ここで考えたいのは、『新潮45』が休刊になるまでの過程です。
これは、ネットの日常風景となってしまった「キャンセル・カルチャー」を髣髴(ほうふつ)とさせます。
「キャンセル・カルチャー」は、欧米を中心に近年盛んになっている「個人や企業が不快なことを言ったり行ったりした場合、謝罪するか視界から消えるまで支援しないことで大勢が一致団結すること」です(ネットで不快な行動糾弾「キャンセル・カルチャー」 米社会の分断促進/afpbb)。
海外では、ファンタジー小説『ハリー・ポッター』シリーズで有名なイギリスの作家J・K・ローリングによるトランスジェンダーに関するコメントや、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのジェームズ・ガン監督が過去にTwitterに投稿した小児性愛や強姦などについての不謹慎なジョークが問題視されました。
ここで最も恐ろしいことは、問題視される事象について「反論」や「議論」の機会が与えられず、言論自体を抹殺してしまいがちな点です。場合によっては文脈や時間といった要素がことごとく無視され、何年も前の発言やログから「燃えそうなもの」が〝発掘〟されます。
もちろん、実際に差別意識から発せられたものには、相応の責任が求められます。そのような社会的制裁とは別に、「キャンセル・カルチャー」によって存在を消すことだけが目的になった時、私たちにとって最大の犠牲者が生まれます。
それは、「対話の契機」です。
ネットで「キャンセル・カルチャー」の波が押し寄せる時、見落としてはいけないのが、ソーシャルメディアの特性です。
コンピューター科学者のジャロン・ラニアーは、ソーシャルメディアのビジネスモデルについて、「人々が苛立ち、妄想に取り憑かれ、分断され、怒っているときにより多くの金を生む」システムであると警鐘を鳴らしました(『今すぐソーシャルメディアのアカウントを削除すべき10の理由』大沢章子訳、亜紀書房)。
情報の全体的な位置付けや信憑性などよりも、感情的な衝撃性を短時間で共有するスピーディさが上回ることから、バッシングの火蓋が切られやすい状況を作り出してしまいがちです。
ある投稿や記事に対する「いいね!」「シェア」が増大することを「エンゲージメントが高まる」と言ったりしますが、運営側であるプラットフォーマーからすれば、バッシングによっても同様のメカニズムが起こっているに過ぎません。
それをラニアーは、「バズること」も「炎上すること」も「サービスが活発になる=より多くの金を生む」と等価な現象だと指摘しています。
これは、ソーシャルメディアに限った話ではありません。ユーザーにとって、ニュースの重要性が視聴率によって決められてしまうワイドショーでは、社会の公益性とは別に「注目を集めそう=引火性が高い」ものが、トップニュースの扱いになってしまう傾向が否めません。
かつて(今もそうですが)「マスコミが取り上げるから重大な出来事に思える」という影響力が作用していたとすれば、これとまったく同様に「ソーシャルメディアで話題沸騰中のものだから重大な出来事に思える」という影響力が作用する構図を反復しているだけなのです。
「『杉田水脈』論文」や「小川論文」のような、批判すること自体に異論が生まれにくい場合は特に、それらの構図を見落としがちです。
そうした過程を経て「ただの燃料」となった出来事は、もはや対象を引いたところから分析したり、整理したりするような冷静な視点の助けは得られず、退屈しのぎのネットリンチや、ポジショントークの材料にされるのが関の山です。
バラク・オバマ前米大統領は、昨年10月にシカゴで行われたオバマ財団のイベントで、他者を徹底的に非難するツイートをしたり、ハッシュタグを入れたりして、世の中のために良いことをした気になって、傍観者を決め込む態度を痛烈に批判しました。
彼はそのような人々の心理を実に上手く言語化しています。
ちなみに「ウォーク」(woke)とは、社会的不公平や人種差別、性差別に対して敏感であることを指しています。
ここで思い出したいのは、『新潮45』の騒動に対して元参議院議員の松浦大悟が述べた「共感できる部分を広げていく」という発言です。
同性愛者であることをカミングアウトし国会議員を1期務めている松浦は、朝日新聞のインタビューに対して次のように述べています。
同じく2018年(平成30年)に起こった『週刊SPA!』(扶桑社)12月25日号の「ヤレる『ギャラ飲み』実況中継」特集では、キャンセル・カルチャー的な動きが先鋭化したものの、最終的には『新潮45』騒動とは違った展開をみせました。
この特集では「ヤレる女子大学生RANKING」という囲み記事で、5つの大学がランキング付けされてたことがソーシャルメディアで騒がれ炎上しました。
「ギャラ飲み」とは参加者の女性に料金を支払って開催する飲み会を言い、編集部が「ギャラ飲み」マッチングサービスの運営者に話を聞く体裁となっていました。
編集部に謝罪を求めた署名発信者の女性たちは、もちろん怒ってはいましたが、求めていたのは相手を「潰す」ことではなくコミュニケーションでした。単に不買運動や廃刊の呼び掛けに終始せずに、メディアの側との直接対話の可能性を探ったこと特徴的でした。
「キャンセル・カルチャー」に対する揺り戻しもあるとはいえ、依然、わたしたちがオンラインライフの暗黒面に無防備な状況は変わりません。
そして、脊髄反射的な言動を促す情報環境は、より一層強化され高度化しています。
わたしたちが認識している世界のかなりの部分はスマートフォンで占められています。その大半がソーシャルメディアで埋め尽くされる中で、最も情動を刺激する不愉快な情報に過敏に反応し、素早く意思表明する呪縛から逃れるのは容易ではありません。
美しい風景を眺めたり、物思いに耽ったり、ペットと戯れたり、誰かと散歩することよりも、「指バッシング」がアイデンティファイ(自己確認)するための重要な儀式になっているかぎり、オバマの懸念は容易には払拭されないでしょう。
わたしたちはさっきから一体ここで何をしているのか?――思わずこう問いかけずにはいられないホワイトアウト的な状況への深い内省が求められているのです。
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