連載
#12 #アルビノ女子日記
「アルビノが遺伝したら…」 結婚の迷いを払ってくれた友の言葉
「同じ症状の子を産みたくない」という思いを溶かしたもの
「どうして自分なんだろう」。神原由佳さん(26)は、遺伝子疾患のアルビノとして生まれたことについて、そう思ってきました。他の人と異なる、白い髪と肌。弱視や日焼けのしやすさといった症状の悩み。同じ苦労を子どもにさせたくないと、結婚や出産にも積極的になれずにいたといいます。そんな神原さんの心を、学生時代に友人からかけられた一言が変えたそうです。「遺伝」という不条理を受け入れるまでの日々をつづってもらいました。
自分がアルビノであると知ったのは、12歳のときだった。
それまで肌や髪の色が薄い理由を知らず、ましてや病気という自覚はなかった。小学校の卒業式の前日、教師から一枚の書類を渡された。見ると「白皮症」(アルビノの別称)との文字が目に飛び込んできた。
家に帰り、ネットで検索すると、私にそっくりな姿の赤ちゃんの画像が出てきた。自らの色が「ふつう」ではない理由がわかり、ホッとした反面、ショックを受けた。アルビノは「劣性遺伝」であるとも知った。
ここで言う「劣」は、単に遺伝子の特徴の現れやすさを示したものであって、性質の優劣を示すものではない。でも、当時の私は「劣性」の文字に過剰に反応し、落ち込んでしまった。
アルビノは1〜2万に1人の確率で生まれるとされる。アルビノの原因となる遺伝子を持つカップルの間に生まれるわけだが、その遺伝子を持つ人は50〜70人に1人とも言われている。
私は、そんな原因遺伝子の保因者であった父と母の間に偶然生まれた。「ただそれだけのことだ」と今なら言えるけれど、素直にそう思えるようになるまでには長い年月を要した。
アルビノとして生まれてきたことは、正直、不条理なことだと思う。
私は「アルビノに生まれたい」と願ったわけではない。両親も、私が五体満足で健康に生まれることを願っただろう。
誰もアルビノで生まれてくると予測できなかったし、現代の医学ではアルビノを治すこともできない。こうして私が生まれてきたことは、私はもちろん、両親も悪くない。医学でさえどうにもできないことに対し、自分はただ無力さを感じるしかなかった。
「どうして自分なんだろう」
そう思ったことは一度や二度だけではない。
「誰も悪くない」
だから、自分も両親も責めることはできない。じゃあ、このモヤモヤした気持ちのやり場はどうすればいいのだろう。誰も責められないからこそ、気持ちのやり場に困っていた。
遺伝の不条理に納得がいかなかった。
10代のころ、私は人との外見の違いに悩んでいた。特徴的な症状である、弱視や日焼けがしやすいことへの不便さも感じていた。そんな自分を劣った存在ととらえ、否定する気持ちがあった。「内なる優生思想」と言えるかもしれない。
だから「将来、子どもを産まない方がいい」と強く思った。
子どもへの遺伝の確率は低いが、0%ではない。万が一、遺伝してしまった場合、私と同じ思いをさせるのは酷だと思った。子どもから「遺伝の可能性があるとわかっていながら、なぜ産んだのか」と責められることが怖かった。
だから、恋愛はタブーだった。好きな人ができて、子どもがほしいと思ったら、きっとひどく困ってしまう気がした。自分は子どもを産まないのだから恋愛も、結婚もしない方がいい。そういう考え方だった。
誤解してほしくないのは、この「内なる優生思想」は自分自身に対するものであり、一度たりとも他者に向けたことはない、ということだ。
学校生活で繰り広げられる恋バナからも、一歩引いていた。
大学時代の男友達の一人は、結婚を含めた人生プランをよく語っていた。私は、それを聞くのが苦痛で、適当に相づちを打ちながら「ああ、この人は私が迷っていることを迷わないでいられる人なんだな」と思い、ひとり寂しくなった。
ある日、帰宅時間が遅いからと、彼が車で家まで送ってくれた。どんな話の流れだったかは覚えていないけれど、「神原には結婚願望はないの?」と尋ねられた。
いつもなら笑ってごまかすところだけれど、この日の私は「いやあ、私ってアルビノじゃん? 万が一、子どもに遺伝して自分と同じ思いをさせるのが嫌なんだよね」と、伝えた。
沈黙があった。
やはり重かったか、と後悔してしまい、小さく「はは」と笑うしかなかった。無理にでも明るく振る舞わないと泣いてしまいそうだった。
だが彼は笑いもせず、こう言った。
「神原が今まで生きてきたんだから、その姿を子どもに見せてやればいいんじゃないの?」
その言葉を聞いたとき、わずかだが光が差した気がした。
「そうだよね。私には、こんな良い友達がいるんだもんね」
彼がこのやりとりを覚えているか分からない。だが、私にとっては彼の言葉が今でも救いになっている。
その後も私の存在を肯定してくれる人たちとの出会いがあり、「内なる優生思想」は打ち消されていった。今でも「絶対に子どもがほしい」とは思えないけれど、親になるという人生の選択肢はあっても良いのかなと思う。
疾患や障害がある子どもを育てることは大変だ。私はソーシャルワーカーとして福祉の現場で働いているので、より強くそう感じる。だからこそ、家族だけで抱え込まずに済む、「生産性」にとらわれない寛容な社会になることを望んでいる。
2016年、相模原市の障害者施設で入所者19人が殺害される事件があった。犯行の背景には「重度障害者は不幸であり、家族や周囲も不幸にする不要な存在」という考え方があると報じられた。
そんな人物がネット上でヒーロー扱いされるのを目にして、私は背筋が凍えるようだった。なぜなら、アルビノも出生を予防すべき遺伝子疾患として扱われ続けてきた歴史があるからだ。
今年7月には、京都でALS患者の「安楽死」事件も起きた。関連ニュースが流れた直後、SNS上には、安楽死や優生思想に関する様々な投稿があふれた。
この事件も、どこか他人事と思えず、思考が停止してしまうほど苦しくなった。私は少しの間、SNSを見るのをやめた。
優生思想が残る限り、成熟した社会とは言えないと思う。誰しもが後天的に疾患や障害を負う可能性はある。当事者が感じる生きづらさや、生活上の困難さは、全て本人の責任なのだろうか。不寛容な社会の側にも課題はたくさんあるだろう。
「自分と同じ症状の子を産みたくない」と考えてきた私にとっても、こうした現実は放置できるものではない。障害がある人々の苦悩と、かつて私自身が抱いた恋愛や結婚・出産にまつわる「迷い」は、地続きと感じるからだ。
「障害者=不幸」とのレッテルを貼る障害者観、法律や制度、医療や福祉現場の職員の待遇。変えていかなければいけないことは、たくさんある。一人のアルビノ当事者として、ソーシャルワーカーとして、私は考えることをやめたくない。
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