お金と仕事
ホームレス男性の隣にいた〝崖っぷち芸人〟の半生、コロナで収入ゼロ
元相方は「雨上がり決死隊の蛍原」どん底で見つけた「ライフシフト」
芸人のコラアゲンはいごうまんさん(51)が、雑誌「BIGISSUE(ビッグイシュー)」の販売者の男性(57)と一緒に路上に立つようになったのは、4月のことだった。テレビという「王道」に乗れずもがいていた芸人人生。元相方が「雨上がり決死隊の蛍原」として一躍有名になった時は挫折と絶望を味わった。ライブ活動が軌道に乗り始めた時におそった新型コロナウィルス。すでに2カ月近く仕事がなく、収入も途絶えていた。この道30年のお笑い芸人が、コロナで見つけた「大切なもの」について聞いた。
もともと4年前から、ホームレスの人たちが路上で販売する雑誌「ビッグイシュー」を販売者の男性から購入していたコラアゲンさん。次第に声をかけあう関係性になっていた。
コロナで世の中が一変するなか、あの販売者の男性は今どうしてるんだろう。そう思って駅前に行った。
コラアゲンはいごうまんさんは、いろんな仕事を体験取材し、それをお話に仕立てる芸風を売りにしていた。
「一緒に立たせてもらって話を聞かせてもらっていいですか」。最初から「体験取材」したい狙いも正直に話した。販売者の男性は許可してくれた。
それでも当初、コラアゲンさんは不安になってたびたび聞いた。「邪魔になりませんか」。販売者の男性はきっぱり言った。「新宿や渋谷など大きな町だったら邪魔だと言っている。でも阿佐谷は常連さんばかりだから」。
男性は日本のビッグイシューの創刊当初から路上で売り始め、新宿や赤坂など通算13年以上の販売実績があった。こうも付け加えてくれた。「一緒に話していれば気が紛れる」。人通りが減っていた中、販売者の男性自身の売り上げも3割減となっていた。
毎日のように一緒に路上に立った。コラアゲンさんは自宅で将来を心配するより、毎朝行く場があってやることがあるだけで救われた。
「心の支援をしてもらった」
なにかお返しがしたい。そんな思いから、買いに来る人の年代や性別をメモして、客層を分析することにした。「マーケティングのお手伝いしますよ」。
でも、そんなことをしなくても男性には、お弁当をつくって差し入れてくれる固定客までついていた。いつもお弁当を届ける土曜日に大雨の予報がでていれば、前日の金曜日に持ってきてくれた。
ずっと一緒に立っていれば、男性が目が不自由な人の歩行などをさりげなくサポートしている姿も目に入った。その人柄に、ますますひかれた。
一緒に立ってやりとりしているうちに、二人の距離はどんどん縮まった。取材に行ったときには、二人のやりとりそのものが漫才のようになっていた。
コラアゲンさん
男性
コラアゲンさん
男性
コラアゲンさん
コラアゲンさん
男性
コラアゲンさん
7月、コラアゲンさんは横浜市で久しぶりの舞台を開き、2度目のオンラインライブも開催した。ファンからは「自粛期間に何をやっていたか聞きたい」とリクエストもきた。だから、このときのやりとりなどをそのまんま語り、しっかり「ネタ」にした。
コラアゲンさんが誰かの仕事場を取材し、その経験を漫談にする「ドキュメンタリー漫談」を始めたのは32才のとき。京都出身のコラアゲンさんが東京に出てきてからだ。
高校卒業後、吉本興業が芸人を育てる養成所NSCで学んだ。だが養成所時代のコンビを解散。そのときの相方は直後に「雨上がり決死隊の蛍原」として一躍有名になったという。
「売れなかったのは俺のせいだったのか」。挫折と絶望を味わった。
吉本で続けたが、芽は出なかった。あきらめられず、29歳、単身で上京。「絶対一発や」と意気込んだが、すぐには門戸は開かれなかった。31才になったとき、ワハハ本舗へ。それでも最初は苦戦した。
あるとき、主宰する演出家の喰始さんにばっさり言われた。「今はうけようとして、いやらしさしか感じない」。あせる自分を見透かされたようだった。そして、こう助言された。
「M-1のように、みんながやるようなネタでは負けたかもしれないが、まだ手はある。自分の体験したことをぜんぶさらけだす、オンリーワンの存在になりなさい。でも人間がおもしろくなかったら無理やで」
それまではどんなアドバイスを受けても、「俺のやり方がある」と思ってきた。でも実際、結果はでていない。悔しいけど、一回聞いてみるか。
それなら好きな相田みつをだ。有楽町の美術館に行った。「つまづいたっていいじゃないの、人間だもの」。揺れるように並ぶ言葉を見ていたら、涙がでてきた。大阪でも、東京でも苦戦。唯一関わってくれる演出家には、「そのままでは無理だ」と言われたばかり。言葉が染みた。
舞台では、美術館で泣いた話をありのまました。観客席がかつてなく沸いた。
「これがウケる、ということか」
喰さんは「どんなつくったネタやコントよりも、人間が見えたほうがおもしろいねん。初めて人間が見えたよ」。そしてあらためて言われた。「おもしろいことを言う人ではなく、おもしろい人生を歩む人になりなさい。人間がおもしろい人は、ずっと長いこと応援してもらえるから」。
以来、自らいろんな体験をしながら漫談をつくる手法に転換した。そうやって刺青のカリスマ彫り師や刑務所の慰問、探偵の現場などを体験取材させてもらい、漫談にしてきた。「悲劇は喜劇に変えられる」。そう言われ、自分にとってもネガティブな話も自虐ネタとして笑いに変えた。
おもしろいと思ってくれた個々人がそれぞれの地方で、人を集めてライブの場所をつくってくれた。これまで全国を12周。「僕の細道」と称する全国ツアーは20年のつきあいのある静岡県焼津市の鈴木さんという個人宅から始まり、美容室や居酒屋などでも開かれる。
場所によっては自腹でも行くこともあったが、この8年は、ようやくアルバイトなしで、芸人としての稼ぎだけで暮らせるようになってきたところだった。
筆者がコラアゲンはいごうまんさんと初めて会ったのは、4月下旬。当初の取材相手は、販売者の男性だけだった。
「僕のことは、書かなくていいんですよ」。コラアゲンさんはそう言いながらも、男性から話題が振られると、堰を切ったように語り出す。そしてそれが熱くて止まらない。失礼かもしれないが、比例するように、一種の焦りが筆者にも伝わった。
元相方も、後輩も次々とテレビに出ている。ようやく見つかった自分にとっての主戦場の全国ライブは、コロナ禍でしばらくは開きづらい。「ようやくアルバイトがなくても生活できるようになったのに。おれはライブでいくって思っていたけど、やっぱりテレビに出ていないとダメだったのかなって。コロナだとますます、テレビ、いいなぁって」とつぶやいた。
「ユーチューブとかはやらないんですか」。そう尋ねると、目が泳いだ。「事務所のはあったのですが、コロナをきっかけに自分でチャンネルをつくってみました。ほかに比べると、遅すぎるくらいなんですけど……」。
でもやっぱり芸人さん。最後は自らを奮い立たすように言った。「でも最近思うんです。今までだって人生自粛だったじゃないか、と」。思わず笑ってしまったのを見て「あ、ひどいじゃないですか」とにやりと返した。
次に会ったのは7月中旬、同じJR阿佐谷駅だった。4月と打って変わって、落ち着いた様子だった。男性はその日は立っていなかったので、二人でそのままコラアゲンさんのアパートに向かった。
聞けば、関西でライブを主催してくれていた人が5月、ズームでオンラインライブを開いてくれた。約100人が視聴してくれたのだという。
オンラインライブでは、最後はミュートになってしまうなどトラブルが起きてしまったため、6月にズーム勉強会を2回重ね、10人規模で交流しながら使い方をマスターし、7月に再びオンラインライブを開催すると、また約100人が視聴した。
「ありがたいなぁって思ってね」
全国でライブを主催してくれるファンらから食料品や応援メッセージなども届いた。
「ビッグイシューの販売者の男性と同じだ。それまで関係を築いていれば、大変な時期でも支えてくれる人がいる」
どこかでまだ、テレビのお笑い番組のひな壇の端っこにでも出たいと思っていた。自腹で交通費を出すこともあった全国ライブについて、お笑い仲間から「なぜわざわざ」と言われることもあった。でも、今回のコロナで気がついた。
「たぶんひな壇形式のような今の番組の作りは変わっていくはず。結局、コロナ後も続けていけるかどうかは、人とのつながりがちゃんとあるかどうか。土台があるから立ってやっていける。やっぱり大事なのはつながりや」
コラアゲンさんの生き方からは、コロナ禍を経て考えるべき新しい価値観が浮かび上がってくる。
誰かとつながっていること。誰かに必要とされていると感じられる役割があること。そして困ったとき、誰かが手を差し伸べてくれること。そんなことが心の平安につながる。コロナ前からずっと言われてきたことだ。
でも、毎日忙しく過ごして、たくさんの人に会っていると、なんとなく紛れてしまうのも事実だ。コロナ禍で簡単に人と会えなくなった時、その「誰か」がいるか、いないのかがより切実に感じられるようになった。少なくとも筆者はそうだ。
コラアゲンさんにとって、その源泉が全国ライブだった。世間のものさしではかったら、テレビ出演は王道かもしれない。でもコラアゲンさんの言うように、ソーシャルディスタンスをとるために番組づくりが変われば、ひな壇そのものも変わらざるを得ない。
これまでのように広く、不特定多数につながろうとするよりも、目の前の特定の少数とちゃんと深くつながれるかどうか。
小さく、でも、深く。これまで以上にそれが価値になる。「正攻法」とされてきた考え方ややり方なんて、時代や情勢でがらっと変わりうる。外からの評価軸だけにとらわれず、自らが積み上げてきたものや「誰か」とのつながりは、簡単には裏切らない。コロナ禍では、それが生き残り策にもつながるほどの重みを増した。
お笑いの世界だけにとどまらない。春から夏にかけ、筆者の話した複数の飲食店の経営者も、「こだわりの店をやっていたので、応援してくれるお客さんがいるからなんとかなっている。でもチェーン、とくに大人数相手に広げていたところは厳しいのでは」と同じような体感を口にした。
アンドリュー・スコット氏とリンダ・グラットン氏は著書「ライフ・シフト――100年時代の人生戦略」で三つの「シフト」を提起した。
(1)ゼネラリストではなく、専門技能を身につけること
(2)人的ネットワークをつくって興味深い人とつながりあうこと
(3)所得と消費ではなく、情熱をいだける有意義な経験といった思いに沿った働き方を選ぶこと
働き方をめぐる価値観の変化が生まれていることは、IT技術の革新や人間の寿命が延びていることを背景に、コロナ前からも言われてきたことでもあった。
コロナ禍で、企業の先行きが見えず、雇用不安や働き方の変化が生まれているのは日本だけではない。
最初に新型コロナウイルスが流行した中国でも、失業や減収が目立つ。感染者・死者とも最多の米国では4月の失業率は戦後最悪で、世界恐慌以来の雇用危機といわれた。
こうした潮流は各国で広がり、日本でも、コロナ関連の倒産は470件(東京商工リサーチ)を超え、解雇や雇い止めは6万人を超えている。
既存の業界のデフォルトが変わっていくなかで、自分がやりたいことのために何が必要で、価値になるかを見極めていけるのか。コラアゲンさんの気づきは、そんな時代の流れとも重なり合う。
8月半ば、東京・高円寺で157日ぶりに開かれたコラアゲンさんの生独演会。テーマは、コロナ禍のなか、海外のSMクラブで働く女王様が「営業」で「あつまれどうぶつの森」を使って人気を博していたことだ。
コロナ禍で取材活動も制限されるなか、女王さまに「あつまれどうぶつの森」を通じてなんとかアプローチし、その極意を聞こうとする話を披露した。
先行きが見えず、どんな仕事観をもっていればいいのか。多くの人が不安を感じている時代。接客業をオンラインで続けて人気を博した女王様の話は、思わず引き込まれた。はさまれる自虐的なネタも絶妙で、ライブならではの不思議な高揚感に包まれた。
コラアゲンさんは漫談の最後、こうしめた。
「いま我々だけではなく、たいへんな状況下におかれた方も大勢いると思いますが、今回(の女王様へのアプローチを試みて)感じたことはどんな仕事もみんな誇りをもっていて、なにかのためになっていて、その誇りと信念をもってがんばっていれば必ず風はまた吹くという気持ちでがんばった方がいいなぁと」
5日連続の2日目のライブ。2年前からファンという横浜市のタクシー運転手男性(48)は最前列に座っていた。「下から目線がいい。地べたをはいずり回って最高の言葉を出してくれる。元気を与えられるんです」。夜勤明けの疲れが残る中、そう言って帰って行った。
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