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悲劇のコンビ、フォークダンスDE成子坂 運命を狂わせた「ボキャ天」

1994年、『GAHAHAキング』10週勝ち抜きを達成したフォークダンスDE成子坂を伝える雑誌記事。その実力から、当時、多くの雑誌が取り上げた
1994年、『GAHAHAキング』10週勝ち抜きを達成したフォークダンスDE成子坂を伝える雑誌記事。その実力から、当時、多くの雑誌が取り上げた

目次

2019年11月、元フォークダンスDE成子坂・桶田敬太郎(享年48)が、がんを患って亡くなった。その相方だった村田渚(享年35)は、2006年にくも膜下出血で急逝。コンビともに若くしてあの世へと旅立った。デビュー後間もなく賞レースで結果を出し、業界内外から才能を高く評価されていた。しかし、なぜか彼らはブレークできなかった。そして、まさかの解散……。刹那(せつな)的に生きた伝説のコント師・フォークダンスDE成子坂。その軌跡をたどる。

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デビュー間もなく認められた才能

桶田と村田は、中学校の同級生として出会った。ともに小学生の途中で三重へと引っ越してきた転校生組。桶田は兵庫、村田は大阪で、幼少期に関西のお笑い文化を吸収していたことは想像に難くない。高校在学中の1989年にコンビを結成。当時から、東京の大手芸能プロダクション・ホリプロのネタ見せ勉強会にも顔を見せていた早熟な高校生だった。

1990年の高校卒業後に2人は上京。アルバイトで生計を立てながら、毎週行われる勉強会に足しげく通った。その成果はすぐに実り、ホリプロのお笑いライブでレギュラー出演を獲得。翌年には事務所所属が決定し、テレビデビューを果たしている。

ジワジワと人気が高まっていく中、賞レースでも結果を残した。1994年には『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』(テレビ朝日系・1993年10月~1994年3月終了)で2代目チャンピオンに。同時期に『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)内の企画で開催された「第14回 高田文夫杯争奪 OWARAIゴールドラッシュ」で優勝を果たしている。

高田文夫=2005年6月30日
高田文夫=2005年6月30日 出典: 朝日新聞

ポストダウンタウンを思わせたシュールさ

彼らの面白さは、コントのなかに凝縮されている。先に触れた『GAHAHAキング』で披露した「誘拐」は、その真骨頂とも言えるネタだった。

桶田扮する誘拐犯が、道端で見つけた少年・村田を連れ出そうとする。「おいしい玩具がある」といった小ボケを繰り出しつつ、玩具やお菓子で気を引こうとするが、村田は「誘拐犯では?」と疑って乗ってこない。最後にひねり出したのが「芋泥棒」という遊びだった。どちらかが片腕をゆっくりと上下に動かすあいだ、もう1人が立ったまま頭の上で手のひらを合わせ、フラフープを回すように腰をよじらせる。

桶田の主導でひとまずゲームをはじめるも、「ルールぜんぜん分からん!」と村田がツッコミを入れて強制終了。今度は村田が誘拐ごっこをやろうと提案すると、桶田が「そのまんまやないかい!」とツッコんでしまい、誘拐犯だったことがバレるというネタだ。

ひょうひょうとした桶田のシュールなボケに、鼻にかかった甲高い村田のツッコミ。関西弁でありながら、都会的なセンスを感じさせるコントだ。これは、1990年代に若手芸人のカリスマだったダウンタウンの2人に非常によく似たコントラストである。誤解を恐れずに言えば「当時、もっともダウンタウン的なコンビだった」のだと思う。

『ボキャ天』で感じた“ねじれ”

1992年からスタートした『ボキャブラ天国』シリーズ(フジテレビ系・1999年9月終了)は、もともと視聴者から募った替え歌の面白さを競うバラエティー番組だった。いわば『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)で恒例のコーナー「空耳アワー」のダジャレ版のようなものだ。

しかし、1994年に『タモリのSUPERボキャブラ天国』とタイトルが変わると、無名の若手芸人がダジャレの面白さを競うコーナー「ヒットパレード」のほうに注目が集まった。短いコントや漫才のなかで、普通ならこう言うであろうフレーズをテレビ画面のテロップに出し、ダジャレを言うタイミングで書き換わるという手法が斬新だった。

ヒットパレードでは芸人のVTRを流すだけだったが、番組タイトルが『超ボキャブラ天国』に変わると、芸人がスタジオに登場するようになる。これによって若手芸人の人気が爆発し、いわゆる“ボキャ天ブーム”が巻き起こる。そのなか、出演者の1組であるフォークダンスDE成子坂の立ち位置は少し特殊なものがあった。

若手芸人や業界人のあいだでは、すでに名実ともに知られた存在。とはいえ、番組内では無名芸人の一員として「本ネタでない部分」で競い合わなければならない。この“ねじれ”は、見ていて違和感があった。

『タモリのボキャブラ天国』

爆問と成子坂を分けたもの

同じ境遇に『GAHAHAキング』初代チャンピオンの爆笑問題がいる。しかし、すでに2人には事務所を独立したことでテレビに出られなくなるという苦い経験があった。どんなことをしてもテレビに出たいという覚悟があっただろう。一方でフォークダンスDE成子坂は、右肩上がりで進むはずだった矢先の出来事だ。複雑な思いがあったことは想像に難くない。

フタを開ければ、ネプチューンやBOOMER、X-GUNなど、若手芸人らしい振る舞いをするコンビに人気が集まっていた。また、ビジュアルやパフォーマンスにインパクトのある芸人が注目を浴び、ネタとは別のところで評価されるのが常だった。

番組スタッフのような格好をしていたフォークダンスDE成子坂は、番組MCやパネリスト(審査側の著名人)から「地味!」といったイジりを受ける存在になっていく。これに村田は「(地味ではなく)シック!」と応戦していたが、ネタへのこだわりが強かった桶田はどんな胸中だったのだろう。リアルタイムで見ていた者からすると、自ら番組内での存在をフェイドアウトさせていったイメージがある。

レジェンド芸人も意識した実力

『ボキャブラ天国』に出演していた芸人たちは、こぞってフォークダンスDE成子坂の才能を絶賛している。

コンビそれぞれが亡くなった当時、テレビやラジオでその多くがコメントを残している。村田が亡くなった際に、爆笑問題の太田光は「あいつらは天才過ぎた。天才過ぎたゆえに売れなかった」と明かし、くりぃむしちゅー・上田晋也は「僕ら世代のトップランナーだった。センセーショナルだった」と回想。“ピコ太郎”でブレークした元底ぬけAIR-LINEの古坂大魔王は村田について、「この人といたら、なんでもボケられる。唯一無二」と述懐。また、桶田が亡くなってから、元U-turn・土田晃之は「センスがやっぱすごかった」と口にしている。

ダウンタウン・松本人志もフォークダンスDE成子坂の実力を認めていた1人だと思う。『ボキャブラ天国』が流行した1990年代、大阪から東京に進出して間もない松本はこれ以上なくとがっていた。

テレビ番組のトークコーナーで、若手芸人について聞かれても「そんなん知らん」と鼻にも引っかけない態度をとっていた。ましてや、松本自身の口から若手の名前が出ることなど考えられない。そんな時期に、唯一名前を口にしたのがフォークダンスDE成子坂だった。

爆笑問題の太田光(右)と田中裕二=村上宗一郎氏撮影
爆笑問題の太田光(右)と田中裕二=村上宗一郎氏撮影 出典: 朝日新聞

松本人志の口から出たコンビ名

私には、忘れられない記憶がある。 『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系・1991年12月~1997年11月終了)の「Mr. BATER」のコント中、松本が「……フォークダンスDE成子坂」と脈絡なくボケたのだ。予期せぬ出来事だったので、テレビを見ていて耳を疑ったことを、今も思い出す。

松本が若手芸人をはっきりと「おもろい」と評価したのは、『M-1グランプリ』がスタートした2000年以降の話だ。血気盛んだった1990年代に、共演者や事務所の後輩でもない若手の名前を口にしたことなどなかった。

解散後の歩み

若手の注目株だったはずのフォークダンスDE成子坂は、1999年12月にコンビを解散してしまう。その後、村田は所属事務所を離れてフリーのピン芸人として活動。一度は元の事務所の系列会社(ホリプロコム)に戻るも、2005年3月に再び契約解消という憂き目にあう。同年5月にお笑いコンビ・鼻エンジンを結成し、ソニー・ミュージックアーティスツに所属。翌年11月に35歳という若さで急死した。

一方の桶田はコンビ解散後、バンド「The 3cm〜」のボーカルとして音楽活動に専念。かつての仲間の後押しもあり、2004年からバラエティー番組を中心とした放送作家・構成作家の仕事をスタートさせている。2014年にはピン芸人としての活動も再開。その5年後に逝ってしまった。

ボキャ天ブームで十分な恩恵を受けたとは言い難いにしろ、周囲の芸人たちからその才能を買われていたのは間違いない。なぜ彼らは別々の道を歩んだのだろうか。

最後に交わした言葉

コンビの解散について、桶田本人が自身のポッドキャストで言及している。桶田によると、決定的とまでは言えない原因がいくつも重なったという。次の七つが主なところだ。

・桶田が自分たちのお笑いにニーズがないと感じていた
・営業先で調子に乗って桶田をイジってくる村田に何度か頭にきていた
・村田と話し合いをする機会がなかった
・桶田と村田のお笑いに対するこだわりが違った
・再起を図ったライブ「自縛シリーズ」の途中で突如マネジャーが変わるなど事務所に対する不信感が募った
・コンビの解散を誰も止めようとする人がいなかった
・桶田に相談できる先輩がいなかった

コンビ最後の営業の日が決まり、その数日前にマネジャーと3人で最終確認の場が設けられた。マネジャーから「(解散で)いいんですね?」と話を振られると、それまでだんまりを決め込んでいた村田が「ホンマもう頭下げるわ。考え直してくれ!」と声を上げた。戸惑いながら「……オレ、表出るタイプじゃないし」と桶田が口を開くと、間髪入れずに村田が「いや桶田は出る側の人やから!」と返した。

しかし、桶田は今さら後戻りできなかった。「無理や」としか言えなかった。今生の別れではなく、一つの区切りだと思っていた。それだけに「もう少し早いタイミングで言ってくれてたら」という気持ちもあった。最後の営業が終わり、桶田はいつも通り車で村田を送って「じゃあな、お疲れ」とあいさつを交わして別れた。これが最後の言葉になった。

フォークダンスDE成子坂:桶田敬太郎-ポッドキャスト【自吐】(JIBBAKU) | Himalaya
フォークダンスDE成子坂:桶田敬太郎-ポッドキャスト【自吐】(JIBBAKU) | Himalaya 出典:https://www.himalaya.com/comedy-podcasts/de-jibbaku-1016979

引き継がれた2人の遺志

才能を認められながら、十分に羽ばたけなかったフォークダンスDE成子坂。今ならテレビの世界だけでなく、コントライブをメインに活躍する芸人はいる。動画配信の普及、映画館のライブビューイング、DVD/Blu-ray、ライブのグッズなど、収益を確保する選択肢が生まれたからだ。時代も彼らに追いついていなかった。

爆笑問題の太田によると、桶田は妻以外に病気のことを誰にも明かさなかったそうだ。そんな気持ちをくんでのことだろう。同時代を戦った芸人たちは、しばらくメディアで桶田の死について触れなかった。桶田は、どんな芸人よりも芸人らしい美学を持っていたのだ。

ソニー・ミュージックアーティスツの常打ちライブハウス「Beach V(びーちぶ)」は、お笑いに生きた村田の遺志を継ぐべく、「村=VILLAGE」「渚=Beach」から名前をつけてオープンした。村田がそれを見守っているのか、2012年にバイきんぐが「キングオブコント」で優勝、2016年にハリウッドザコシショウ、2017年にアキラ100%が「R-1ぐらんぷり」で優勝するなど、後輩たちは結果を残している。まるで、現世での評価を後輩たちに委ねたかのようだ。

解散の前年から行われた全5回の単独ライブ「自縛」のコントは、桶田が後世のお笑いに「種をまくため」につくっていた。その通り、どれも古びないネタばかりだ。はじめて見る方は、20年以上前の2人のセンスに驚くことだろう。そして、「なぜもっと見られないのか」と悔しがることになるはずだ。

フォークダンスDE成子坂は、間違いなく1990年代を先導した特別な芸人コンビだった。その実力とは裏腹に、あまりに知られていない現状がある。 あの世でも、2人でコントを楽しんでいることを願う。

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