連載
#12 withコロナの時代
「65歳以上はすでに遺体」コロナがあぶりだした差別との向き合い方
「明日死ぬかもしれない」から始まる生活
繁華街や空港から人がいなくなるなど、新型コロナウイルスは、わたしたちの生活を一変させました。評論家で著述家の真鍋厚さんは、社会の劇的な変化には「明日死ぬかもしれない」怖さと気づきがあると指摘します。同時に、医療体制が崩壊した国では「65歳以上の人びとは『すでに遺体』」と言われるなど、生産性に基づいた差別もあぶりだしました。誰もが「明日死ぬかもしれない」し、「65歳以上」にもなる中、ウイルスの不安にどう向き合えばいいのか。「withコロナの時代」における社会との関わり方について、真鍋さんにつづってもらいました。
新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的流行)が、わたしたちの日常生活のあらゆる場面に立ちはだかるようになる中で、「withコロナ」(コロナとの共生) に関する議論が盛んに繰り広げられています。これまでの社会を反省的に振り返りながら、新しい社会のあり方を模索しようとするものです。
そこで重要になるのは、「新しい生活様式」や「新しい日常」などという表面的なフレーズで表されるものではなく、わたしたちが普段語ることを避けているものの、結局は考えざるを得なくなる「身体の問題」への向き合い方です。
今回の感染症による日本での死者数は、現状では海外に比べて多くはないと報じられていますが、「もし自分が感染して肺炎になって死んだら……」というふうに、「死の可能性」を考えて一抹の不安を感じている人は少なくないと思います。
くしゃみの飛沫(ひまつ)や咳(せき)といった人間の動物性をいや応なく意識させられる感染症の恐怖は、普段は「思慮の外」にあるような「自らの身体性」――ウイルスの宿主となる動物としての人間、死すべき運命にある動物としての人間――を強烈に呼び覚まします。
もちろん、様々なメディアが批判している通り医療体制の不備など国家レベルの過誤によって命を落とすという人災の側面も当然あります。
しかし、「身体の問題」の本質は、手洗いを徹底しても、「3密」を守っても、感染リスクをゼロにすることはできず、仮に適切な検査や治療が行われたとしても助からない場合があり得るという部分にこそあります。
このような「身体の限界」を突き付けられる局面は、何も新型コロナウイルス感染症に限ったことではありません。これは想像するだけで身の毛のよだつ事態ですが、絵空事として片付けてしまうのはあまりにも非現実的です。
英ウェールズ・カーディフ大学の緩和医療教授で、医師でもあるイローラ・フィンリーは、万が一の場合に備えて、「もし自分が発症したらどういう治療を受けたいのか、そしてもし自分が死んだらどう扱って欲しいのか、誰もが考えて、近親者に伝えるべきだ」と言っています。
大半の人々は常日頃、「明日死ぬかもしれない」などと痛切な思いを抱いて生きているわけではありません。
しかし、突然の事故や病気などによって生命を絶たれることは誰にでも起こり得ることです。いわばコロナ禍はそのうちの一つに過ぎないわけです。
人類は過去にいくつもの感染症によるパンデミックを経てきており、よく参考例として示されるスペイン風邪(1918年〜1920年)では、世界中で5千万人とも1億人とも推計される犠牲者が出ました。日本でも40万人近くが死亡しています。
ただここで注意して欲しいのは、この人類にとって比較的最近の経験も、1世紀も前の話ですから生き証人がいません。誰もがビギナー(初心者)と呼んで差し支えない無防備な状態なのです。
「明日死ぬかもしれない」に対してビギナーだったわたしたちですが、コロナ禍をめぐる報道やソーシャルメディアの情報に接しながら、死という最悪の事態を身近なものとして感じ取るだけでなく、生きることそれ自体に内在する根源的な不安を突きつけられています。
いわゆる「実存のスイッチ」が入ったのではないでしょうか。
それは、自然の産物である「自己の身体」と称して、それぞれ会社員や医師や学生という社会的な装飾と概念によって覆っていたものが、究極的にはコントロールが不可能なものである事実を受け止めることにつながります。
コロナ禍がなかったとしてもわたしたちの生命は例外なく終わりを迎えるからです。しかもどのような終わりを迎えるかはまったく不確実です。
「私たちは常に不確かな状態で生きている」というフィンリーの至言は、まさにこの真理を率直に物語っています。だからこそ「本当に大事なことは何なのか」という地平が開かれるのです。
今回のパンデミックによって仕事や人間関係、ひいてはライフスタイルそのものを根本的に考え直す人々が増えているのは、経済的な理由だけではなく前述の「明日死ぬかもしれない」に対してビギナーだったわたしたちが気づいた「実存的な理由」も少なくないと思われます。
「明日死ぬかもしれない」という境地から導かれる内省は、必然的に「今の生き方」でよかったのかどうかという妥当性を問い掛けてきます。「withコロナ」時代は、「withデス」(死とともに歩む)時代の兆しでもあるのです。
コロナ禍によってわたしたちが潜在的に持っていた社会課題も同時にあぶり出されました。
それは高齢者や基礎疾患を抱えている者といったハイリスク層への配慮が思うように進んではいないことです。日本だけではなく世界各国で多かれ少なかれ指摘されています。ヒューマン・ライツ・ウォッチは高齢者に対する人権侵害があることを訴えています。
「65歳以上の人びとは「すでに遺体」」というくだりはとても衝撃的ですが、特定の年齢層に単一のイメージを押し付ける作法にすでに差別の萌芽(ほうが)があります。
「子ども」「若者」「サラリーマン」「主婦」「高齢者」といったステレオタイプに基づく政策は、非常時にはなおさら悪夢のような光景をもたらしてしまいます。なぜならそこに個々の事情がある「顔の見える他者」はいないからです。
さらに、わたしたちは「高齢者」と一括にしがちですが、不思議なことに自らが高齢者になることは想定されていません。これは老化への反動であるアンチエイジングブームの深層にある「時間感覚」の欠如です。
わたしたちはしばしば重大な決定をする際に「時間の外」に自分を置いてしまいます。衰えたり、病んだり、死んだりしない社会的な存在として物事を判断するのです。自分と他人が「明日死ぬかもしれない」生物的な存在であることをケロリと忘れてしまい、周囲の「身体性を考慮しなくなる」厄介な思考です。
もう一度言いますが、これは健康で「生産年齢人口」という繭(まゆ)に包まれているがゆえの無責任な発想なのです。なぜなら、ほとんどすべての現役世代が確実に介護の必要な高齢者、つまり「災害弱者」に仲間入りをするからです。
前出の記事に登場するヒューマン・ライツ・ウォッチの高齢者の権利担当調査員ベサニー・ブラウンが、「高齢者の平等権が無視されれば、それは私たち全員が危機に直面しているということに他ならない」と述べたように、津久井やまゆり園の事件で顕在化した優生思想的な命の選別が容認されることになります。
個人が主体的に決める延命措置の停止(これはこれで解決が困難な課題がいくつかありますが)と、優先順位ありきで強制的におこなわれる延命措置の停止には、外見上似たような光景に映ったとしても天と地ほどの開きがあります。
地球温暖化による気候変動などの影響を踏まえれば、コロナ禍のようなパンデミック、いやそれ以上の規模の生物災害が将来、高齢者として生きることになるわたしたちに襲い掛かることになるでしょう。
今、子どもや若者といった年齢層に区分けされている人々も高齢者になれば、同様の境遇に置かれることぐらいは容易に想像がつきます。
例えば、先の「65歳以上の人びとは「すでに遺体」」という極端な考えを「生産年齢人口」的な立場から肯定した場合、その時点で未来の自分自身をも「遺体」として扱われる側になることに同意したということなのです。これは「生産性」という尺度の暗黒面です。
このようにコロナ禍が持つインパクトは、わたしたちの普通に過ごしてきたと思っていた実存を動揺させるだけでなく、わたしたちの盲点をも激しく照射します。
人間は巨大な生態系に依存するか弱い生き物であること、そして人間はそんな過酷な身の上にあることをすぐに忘却するのです。
いみじくもカミュは、『ペスト』をこのような言葉で締めくくっています。
わたしたちは自分自身や親しき者の死すべき運命に背を向けることなく、コロナ禍を俯瞰(ふかん)する余裕を持ちながらしぶとく生きてゆくほかなさそうです。
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