お金と仕事
戦力外通告からの職探し「憎々しいイップス」経験がもたらした内定
元プロ野球選手・北川智規さんのセカンドキャリア
働き方が多様化する時代、セカンドキャリアを考える人は増えています。中でも、大きな「ジョブチェンジ」に直面するのがプロスポーツ選手です。一浪して国立大学に入学し、ドラフト7位でオリックス・ブルーウェーブ(当時)に入団した北川智規さん(42)。狭き門を勝ち抜いたものの、4年目の26歳の時、戦力外通告を受けました。引退後の「就活」でいきたのは、意外にも現役時代にイップスと戦った経験でした。管理職となった今、「野球では結果を残せなかったけど、ビジネスの世界で貢献したい」と語る北川さんのセカンドキャリアを聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
北川智規(きたがわ・とものり)
2001年、23歳でオリックス・ブルーウェーブに入団しました。夢がかなった一方、“ドラフト7位”だったのであまり期待されていないことがわかっていました。「チャンスをもらえただけ」だと思いましたね。
上位指名だったら「毎年10勝しよう!」など、もっと前向きに考えていたと思います。プロ契約は2月1日から12月31日。毎年が勝負で、いつクビになるかわかりません。何歳まで野球を続けられるか、まったく予想できませんでした。
大学卒業後すぐにプロ野球の世界に入ったので、社会常識を身につけないといけないと思いました。興味があったのはファイナンシャルプランナーと宅地建物取引主任者(現・宅地建物取引士)。生活に直結している実用的なテーマなので興味がありました。
野球漬けの毎日でしたが、「勉強は積み上げていくことができる」という思いをモチベーションに、独学で知識を蓄えていきました。
たとえプロになったとしても、その経験を一般社会で生かすのは難しいということを、現役時代には常に感じていたのです。
野球人生これから、という時に右肩に違和感が走りました。イップスという症状でした。突然、ボールをうまく投げられなくなってしまったのです。その時の気持ちは「悔しい」の一言に尽きます。自分の力が発揮できないことに対しての悔しさですね。
今まで積み上げてきて、ようやくプロという土俵に立ったのに、「こんなんだったら、プロにならなきゃよかった」という後悔さえも感じました。私の立場だと、「肩が痛くて投げられません」と言えば、来年切られることが目に見えていたので。
学生時代は球速145キロだったのが、135キロしか出なくなっていました。でも、簡単に「痛い」なんて言えなかったですね。何とか結果を残さないと次はないという思いで必死でした。
希望となったのは、プロ野球の世界は球のスピードだけではなく、回転などの「キレ」も重要ということ。球が遅くても、ある程度は結果をおさめられるので、どうにかして投げ続けられる術を見つけようともがきました。
そこで、大学時代にお世話になった理学療法士に現状を話したところ、「肩のここの筋肉が炎症を起こしている」と具体的なアドバイスをもらえ助かりました。
そこで、投げ方を変えて、なおかつ練習方法やランニング方法を変え、肩の可動域を広げるストレッチなどをした結果、少しずつですが、何とか投げられるようになりました。
でも完全には良くなりませんでした。もし、最初のアプローチを間違えていたら、まったく投げられなくなっていたかもしれません。
違和感に対してどのようにアプローチするかは、「課題に対して原因を探り、解決法を見いだしていく」という、働く上でも必要なことと同じだったと感じています。原因を間違えてしまうと、何をしても意味が薄れてしまうと思うので。
その後も、曲がりなりにも投げ続けました。プロ4年目の時、2軍のウエスタン・リーグにいたのですがリーグ内で防御率が3番目に良く、実績を残していました。その秋に1軍に昇格し、防御の固さは続いていました。
ようやく、自分自身の中で、野球の技術的なポイントをつかんだ時でした。フォームはまだ変則的だったのですが、抑え方について手応えを感じた時だったので、「まだまだできる」という気持ちがありました。
しかし、自分の思いとは裏腹に、その年に戦力外通告を受けてしまったのです。「何で自分が」という悔しい気持ちでいっぱいで、通告を受けたその日に、ロッカーの荷物をすべて引き上げてしまいました。
後に、つてを頼って、当時球団のゼネラルマネジャーだった中村勝弘さんに解雇の理由を聞きに行きました。その時「君には将来がある。野球だけやっても本人のためにならないから」と言われました。
入団時、引退後は具体的に何がしたいかまでは見つけられていませんでしたが、実は、インターネットなどで情報収集だけはしていました。
あと、知人に紹介してもらったキャリアコンサルタントにも相談に乗ってもらいました。まだプロ野球選手のセカンドキャリアの情報が少ない時代だったので、プロの意見を聞いた方がいいと思ったのです。
その結果、30歳を超して社会人になった時、どれだけ学歴や評判が良くても、なかなか社会が受け入れてくれないのが現実、ということを知りました。だから、中村GMの言葉は一つの希望となりました。今でも心に残っています。
野球関連の仕事は門戸が狭いので、就職活動ではキャリアを積み上げられる職を軸に探しました。面接では野球をしてきた中での苦労と、それに対して改善したことを、熱意を込めて説明しました。
イップスの発症も含めて、諦めずに努力してきたことをアピールした結果、外資系の製薬会社から内定をもらいました。その一方で、オリックスのことをよく知っている大学時代の監督から「オリックスも受けてみたら?」と言われたのです。
調べてみたところ、多角的な事業展開や、多彩な人材活用をしている会社だと感じ、受けてみた結果、内定が出ました。オリックスに決めたのは、多少は不動産関係の知識があったのと、「オリックス」に愛着があったから。野球では結果を残せなかったけど、今度はビジネスの世界で恩返ししたいと思いました。
入社してオリック不動産に出向しました。27歳の新人でしたが、変わったキャリアを持った人間に対して寛容な社風がありました。優秀なトレーナーをつけてもらい、部署全体で育ててもらいました。
最初の3年間はワンルームマンション、その後は分譲マンションの事業を担当したのですが、これまで勉強してきた不動産関係の知識が役立ちましたね。2008年に、運営事業部に異動になってからはマネジメントの仕事をしています。
この4月から、オリックスグループの18の宿泊施設を運営する運営会社8社を統合したオリックス・ホテルマネジメントで運営企画を担当しています。管理職となり部下を持つ身なので、チームの得手不得手を把握し、各自の良い部分を伸ばすチームマネジメントを心がけています。これは現役時代に仰木監督から学んだことです。
今、新型コロナウイルス感染症の影響で、ホテル・旅館業界では厳しい状況が続いています。日々状況が変わる中で事業に関する最新の情報をキャッチし、スピード感を持って対応しています。現役時代、ピンチの時は周りに惑わされず冷静に状況判断し、投手としてやるべきことに集中してきました。今も同じ姿勢で業務を遂行しています。
現在テレワーク中心の働き方のため、社内外のコミュニケーションが希薄になりがちです。その中でも、オンライン会議を駆使し、メールや電話でのフォローし、チームとして業務効率が落ちないように心がけています。
野球をしている方も、大変な時期だと思います。練習やトレーニングができない日々が続いても、自分のプレーを振り返り、その分析をしたり、読書をしたり、今しかできないことに取り組んでほしいです。目標を失わずに、目指すべきゴールに向かって進んでいってください。
北川さんのセカンドキャリア前編
1浪して国立大卒でもなれたプロ野球選手 今も守る仰木監督の教え。新井選手に教わった「聞く耳」の大切さ。 【記事はこちら】
1/6枚