連載
#9 withコロナの時代
「社会に尽くす」モードが独り歩き コロナ対策、管理社会の未来
失われつつある「自由とリスクのせめぎ合い」
コロナウイルスによって緊急事態宣言が出されてから、人の移動が制限されることは当たり前のように受け入れられつつあります。命を守るために必要な対応である一方、今後も自由がなくなってしまう恐れはないのでしょうか? 津田塾大学准教授の柴田邦臣さんは、現在の状況で外出を控えることは絶対に必要であるとしつつ「自分の健康を守ること」が「社会に尽くし続けること」へ安易に結びつけられかねない状況に警鐘を鳴らします。一斉休校の要請を巡っては、子どもたちへの心身の影響も心配されています。「自由」と「リスク」についてどう考えればいいのか。柴田さんに話を聞きました。
大型連休の前に東京都の小池百合子知事は「STAY HOME週間」として、外出を控える呼びかけをしました。各地の人の移動状況が伝えられる時、使われているのは個人情報がわからないよう処理されたスマホの位置情報のデータです。
柴田さんは、位置情報の収集の先にある未来として、「どこに行ったのか」だけでなく「何をしたのか」「その時、どういう健康状態だったのか」まで含まれる「ライフログ」が集められる可能性を指摘します。
「データを集めることが目的化していないか考えないといけない。自分の健康を守ることと、国家を守ることが、いつの間にか同じになってしまう」
柴田さんは「自分らしく健やかに生きる」ことと、「社会のために尽くす」ことは、必ずしも両立しないと言います。
「『3密』を避けクリーンで正常で適正な人間であることを示すことが、緊急事態下においては社会のためになってしまう。自らの自由と社会が、テクノロジーを通して統合し、一体化する。その結果、『自分の健康を守ること=社会に尽くすこと』になりつつある」
コロナウイルスの特徴の一つが、感染者の自覚症状がない場合が多いことです。封じ込めの施策として、行政が管理する感染者の情報を元に、感染者と接触した可能性の高い人へスマホを通じて知らせるアプリの開発も進んでいます。
政府は「いつ、だれと、どこで」のような細かい情報は利用者にも感染者にも通知しないとしていますが、情報が漏れてしまう可能性などプライバシーが侵害されるリスクを指摘する声もあります。
「自由は、上からシステム的に決められるものと、自分で決めようとするもののせめぎ合いだった」という柴田さん。感染を追跡するアプリのようなシステムに任せてしまう方法が説得力を持ち、自分たちで判断して議論して決める方法が置き去りにされかねない状況になっていないか、問題提起します。
「目に見えない危機に対しては、自分や他者を尊重して議論して決める方法だと間に合わないように見える。だからといってシステムに任せると、自由はシステムから与えられるものになってしまう。だから今は、『文化や教育』といった、自らの判断と責任で決める自由を土台とする分野から、最初に犠牲になりかねない状況になっている」
外出自粛を巡っては、徳島県で、県外ナンバーへの「暴言やあおり運転」も起きています。県が実施した県外ナンバーの車の流入調査が影響を与えたことを認め、知事らが釈明する事態にもなりました。
スマホを通じたライフログの収集と管理によるリスクに重なる「自粛破り」への過剰な反応。看護師の感染が明らかになった病院の職員が「子どもを保育園に通わせるな」と中傷を受けたケースも生まれています。
コロナウイルスへの感染がスティグマ(偏見)化しつつある現状に対して、柴田さんは「システムが強制的にあぶりだすのではなく、感染のリスクを自覚した人が、限界のあるPCR検査を受ける前に、自主的に隔離生活に入る方ぐらいの方がいい。その行為に補助金が出たり、社会的に称賛されたりしてもいいのではないか」と提案します。
「最悪なのは『夜遊んでいた』、『3密を守らなかった』などとレッテルを貼るようになること。生きることの自粛になりかねない危機意識を持たなければいけない。敵はCOVID-19であって、感染した人ではない。
そこで、柴田さんは、あえて「我々は自粛するべきではない」と強調します。
「私たちは上から命令されているのではなく、自分で決めて『STAY HOME』をしているのではないか。そういう積極的で主体的な行動には、自分を押さえ込み我慢しているような自粛という呼称は蔑称でしかない。人から強いられた自粛だと感じていると、し続けるのが辛くなったり疲労してしまったりする。自らの社会を守るために積極的に『STAY HOME』している、一緒に戦っているという、自覚をもてるような表現の方がふさわしい」
自粛という決められた制限は「失敗した時の責任が、自粛をしなかった人間に押しつけられる危険」につながるという柴田さん。
「自粛だけが目的になっていないか。自粛はあくまで手段。主体的に決定できるかどうかが問われている」
厳しい外出自粛に先立ち実施されたのが一斉休校です。現在、オンライン授業などの取り組みも進んでいますが、インターネット回線が整っていない家庭も少なくありません。そもそも、全ての授業をオンライン化できるのかどうかという不安もあります。
柴田さんは、「オンライン化には『されやすいもの』『されにくいもの』『されてはいけないもの』の3種類がある」と指摘します。そして、一斉休校によって、これらの区別がつかないまま、授業の内容の中で「されやすいもの」だけがオンライン化されている心配があると言います。
「学校は、生徒が嫌いなこと、向いていないと思うことでも目を背けずやらなければいけない場所だった。対面的関係だと逃げられない。そういう『自分にとって都合が悪い情報』に向き合い考えることが、学ぶ人のリテラシーを鍛えていた」
「オンライン化しやすいのは、『耳あたりのいい情報』。第一印象で受け入れやすいものばかりになる。教育までが、自分の好きな情報だけ選べてしまうバイアスに埋め尽くされかねない」
柴田さんが危惧するのは、急速なオンライン化が引き起こす学校側、教師側の立場の変化です。
「急速に強いられる教育のオンライン化が、完全にうまくいくことはない。慌ててネットで授業をやろうとしても、たいていの先生は必ず失敗をするし、むしろ生徒の方が慣れているくらいだ」
「先生の教壇での説得力は、どんどん失われるだろうが、それが『耳に痛いが学ぶべき内容』の説得力や意欲も喪失させるかもしれない一度、生徒の意欲を欠くようになった授業は、オンラインでどんなに華麗に復活しても、横で堂々としているゲームやイラストの練習の、BGMと化すだろう」
2011年の東日本大震災の時、柴田さんは被災地の子どもの学習支援に取り組んでいました。当時、子どもたちを励まそうと全国から様々な人が被災地を訪れました。しかし、多くの場合、被災地の子どもは「何かを受け取るだけ」になりがちで、主体的に関わる機会を用意できなかったと振り返ります。
「自分たちの場所である学校が避難所になり、そこで、大人たちが怒鳴り合う姿も見て育った。被災地外の大人が助けにきてくれるけど、炊き出しでもコンサートでも自分たちはお客さん側で、自分たちができることはないまま、いつの間にか学校が再開する。こういう経験が、子どもたちにある種の無力感やあきらめの感覚を強いてしまったようにも感じた」
柴田さんは、コロナウイルスによる一斉休校が与える子どもへの影響は、「あの震災の悲劇をさらに上回るもの」だと感じています。
「日本社会で最初に中止され没収されたものが、自分たちの教育だったというダメージ。学力育成の問題を超えて、今の学齢期の子どもに決定的に残る。『この社会で最初にあきらめるべきなのはおまえたちの“学び”だ』と言われたようなもの」
震災の時は、津波の被害を受けた街全体が機能停止し、学校も「クライシスな状態」でしたが、新型コロナウイルスの場合「児童・生徒たちにとっては、学校はクライシスじゃなかった」と柴田さんは考えます。
「それほど遠くないうちに学校は部分的に、ないしはオンラインで再開されるだろう。友達や先生に会いたくて、子どもたちの『体』は喜んで登校するだろうか、もはや子どもたちの『学ぶ精神』はそこにはないかもしれない」
「『学びにくいこと』、あえて自分にとって耳あたりが悪く、目をそむけたいものにも向き合って学ぶ場であった学校の価値は、安易な一斉休校によって根本的に揺らいでしまった。『学ぶ』ことの危機は、社会の再生産の危機で、まさに未来の危機でもある。医療危機、経済危機をも上回る、真のクライシスといえるかもしれない」
今後は、あらゆる情報のオンライン化が進むという柴田さんは「私もそれに登録することになる。しないと生きていけない」と予測します。
「位置情報を自主的に登録し、それをもって陽性者をあぶりだし、鎮圧の一歩を踏み出す。その先には、『不健康な生き方』を社会の負担として認めないシステム、例えば肥満へのアラートや、運動の時間や散歩コースがAIにおススメされるような生活が待っているかもしれない」
現在、障害者の教育支援について研究している柴田さん。オンライン化などITの活用自体は避けて通れないことは認めています。むしろ、コロナウイルスの感染拡大が起きる前は、共生社会を進める大事な道具になるとも考えていました。
「早すぎた。そもそも障害児教育やインクルーシブ教育では、オンラインになりにくい学習方法こそが重要だった。それを丹念に少しずつデジタルにしていくはずだった。理想なら10年、標準で5年、せめて3年は欲しかった。強いられた遠隔教育は、障害のある子どもの学びに、大きな混乱と格差を生みかねない」
大きな変化が急に訪れてしまった今、柴田さんが強調するのが「自由とリスク」の関係です。
「リスクをとる自由からしか生まれないものがある。システムが『自由』を決定する世界では、個人が『自由』について知り決定する力は『リスク』でしかない。個人が自由を決める力を養う『教育』や、その表現の集積である『文化』そのものが『リスク』の源とされかねない」
「COVID-19のクライシスが終わった後で、私たちの社会は『不健全に生きる自由』に寛容でいつづけられるだろうか。『社会防衛のために、自粛して健全に生きる義務がある』という世界で、自分でリスクを判断するための『教育』や、その意思で行動する『文化』が切り捨てられていく危機が起きてしまいかねないことを、今から考えなければならない」
記者の気づき
■取材のきっかけ
柴田さんが書いた『〈情弱〉の社会学』(青土社)は、「特定健診」を事例に、健康を守るというその人にとって役立つと思われる規律が、結果的に、その人を縛る存在にもなり得ることを指摘しています。
『〈情弱〉の社会学』はさらに、今回のCOVID-19の危機でも注目された「マイナンバー制度」や、「介護保険制度」にまで議論を広げます。
これからの福祉サービスは、蓄積された膨大な個人の健康情報を元にした情報システムによって決定されるようになると考えられます。そのデータにはサービスを申請する本人のデータも含まれます。結果、決定に納得できないことがあっても、自分のデータが元になっている以上、反論しにくい状況が生まれます。
このような、本人にとっての「自由」よりも、社会が決めた「規律」が説得力を持つことで「自粛の空気」が生まれると指摘していました。
『〈情弱〉の社会学』が出版されたのは2019年9月。コロナウイルスによる「自粛の空気」を予言していたと言えます。
■オンライン化が新たな格差に
柴田さんの「早すぎた」という言葉を聞いた時、思い出したのが、『〈情弱〉の社会学』にも書かれている障害児教育を巡る事例です。
障害をもった子どもの一人が、「学校」など特定の単語を呼びかけると「学校」の画像が出てくるようなタブレット端末の音声認識機能を使って、言葉を覚える場面が紹介されます。その子どもは、さらに「学校」と「姉」などを組み合わせて文章を作るようになりました。
そのタブレット端末自体、もともと障害者のために作られたものではありませんでした。支援者は、まず言葉を覚える「教育ツール」というカスタマイズをタブレット端末に施しましたが、当事者である子どもは、そこからさらに「会話の道具」にまでしてしまったのです。
子どもが自ら生み出した工夫からは、「自粛」ではなく「自立」のため、技術を使いこなす意義が伝わってきます。同時に、当事者が主体となる「想定外」の進化のためには、相当な時間がかかるという現実も浮かび上がります。
じっくりと向き合う時間がないまま、タブレット端末ありきの社会になった時、今度は、それについていけないことが新たなハンディキャップになるのかもしれません。
■「せめぎ合い」から生まれる自由
障害者の学習支援に携わる柴田さんは、震災での経験などを手がかりに、今、できることを形にしようとしています。
現在は、一斉休校のなかで、障害のある子どもに役立つ教育情報を提供する、Counter Learning Crisis Project(学びの危機:まなキキプロジェクト)の活動をおこなっています(http://learningcrisis.net/)。
データを管理されるような形ではなく、テクノロジーに対して主体的に向き合う。そのことで生まれる建設的な変化の可能性があるのも事実です。
『〈情弱〉の社会学』では、「電話」での受発注が中心だった時代には「働けない障害者」だったろう者や難聴者が、電子メールやLINEが普及したことで労働市場に復帰しつつある変化が紹介されています。
システムへの向き合い方として、子どもという当事者抜きに進んだと批判される一斉休校の影響を考える時、何のために生まれたものなのかが抜け落ちたまま生まれてしまう「自粛」の恐ろしさが突きつけられます。
「自由とは、システム的に決められるものと、自分で決めるもののせめぎ合い」と柴田さんは強調します。
今のような命に関わる問題によって物事が進んでいく状況だからこそ、「白黒つけられない」ことで社会が成り立っていることを忘れないようにしていきたいと感じました。
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