感動
隠した生徒証の住所は仮設団地、大学生になったふうちゃんとの9年
少女の視点で、震災後9年の道のりをたどりました
東日本大震災の直後に出会った小学校5年生の「ふうちゃん」。9年の間、折りに触れ、言葉を交わしてきた少女は、町の風景とともに大きく変わっていきました。津波で壊滅状態となった大槌町の漁師町・赤浜で育ち、今年1月、成人式を迎えた中村史佳(ふみか)さん。生徒証の住所欄が「仮設団地」だったのが恥ずかしかったこと、押し殺していた涙が溢れたこと、そして選んだ夢への道。少女の視点で、震災後9年の道のりをたどりました。
2015年、史佳さんは中学3年になっていました。史佳さんの育った大槌町赤浜は、津波で壊滅状態になった後、全く違う集落に生まれ変わろうとしていました。防潮堤に頼らず、土地を10メートル以上かさ上げしたり、山を削ったりして高台に集落を造ることにしたからです。
母校・赤浜小の校舎は震災翌年に解体されました。そして2015年、海を望む校庭に並んでいた5本の桜も切り倒されることになりました。1本は100年前からあり、他の4本も80年近く前の卒業生が植えたものでした。津波に耐え、震災後も地域の花見会が開かれていました。
2015年の3月、住民100人が集まってお別れ会が催されました。中学3年になっていた史佳さんは、同級生の藤原里緒菜さんと別れの作文をそれぞれ朗読しました。
史佳さんは「まだ仮設住宅で暮らしていますが、くじけそうになったとき桜を思い出します。きっと住みよい町になると信じて、桜とはお別れします」と木に語りかけ、「ありがとう」とお礼を言いました。
藤原さんは「(桜は)変わってしまったものばかりの中で、変わっていないもの」だったと惜しみつつ、「これは私たちの支えとなった桜の代わり(に町)を築くためのきっかけです」と結びました。
志望する高校をめぐって、史佳さんは父の誠一さんと言い合いになりました。史佳さんは友達の多くが志望する大槌高校に行きたかったのですが、誠一さんは「視野を広げ、進学の選択肢も増える」と隣市にある釜石高校を勧めました。
友達と別れるのが嫌で、仮設住宅の外に声が漏れそうなくらい、史佳さんは泣いて抵抗しましたが、最後は、経済的に苦しい中でも交通費のかかる学校に通わせようとする誠一さんの言葉を聞き入れて、従うことにしました。
2015年春、釜石高校に入学しました。県警音楽隊に入った姉の影響で吹奏楽部に入部し、新しい友人とのつながりもできました。朝6時半にバスで赤浜を出て1時間かけて通いましたが、だんだん「自分は今まで大槌に引きこもっていたんだなあ」と、出てみてよかったと思うようになりました。
ただ、津波で家を失った生徒の方が多い大槌町から離れると、震災の話は自然とできなくなったといいます。高校に入る頃には土地の整備も終わり、新居に入れるはずでしたが、工事は様々な理由で1年、2年と遅れていきました。生徒証の住所に「仮設団地」と書かれているのが恥ずかしくて、人に見せられませんでした。
姉は独立し、史佳さんは両親や祖母と4人で暮らしていました。父の誠一さん、母の裕美さんは史佳さんに気を配り、津波で亡くなった肉親や被災体験について、「家では明るく語ることを心がけた」と振り返ります。一方の史佳さんも「父親と弟を亡くしたお母さんのほうがずっとつらいはず」と悲しい顔は見せませんでした。
史佳さんは、そうやって押し殺していた感情が抑えきれなくなったのか、高校生になると、ふと当時のことを思い出して、不安になったり、涙が出たりするようになりました。狭い仮設住宅で暮らしていたので両親もうすうす知っていましたが、気遣いながらもそっとしていました。
それでも史佳さんは、多くの命や家を奪った海を嫌うどころか、海を見ると心が和みました。高校に通うバスに乗るときは必ず海が見える方に座って、車窓から眺めていました。
高校3年になった春、ついに中村家と祖母の新居が隣同士で完成し、仮設住宅を出ました。もう進学先を決める時期でした。史佳さんは「海に関係する勉強をしたいな」とぼんやり思っていました。一方で、小学生の卒業式には「漫画家になる」と宣言したくらい芸術は好きだったので、その方向に進むか迷いました。
どこを受験しようか大学や学部をインターネットで検索していて、岩手大農学部に「水産システム学コース」が新設されたのを知りました。
東日本大震災を経て水産資源がどうなり、どう管理していくかを研究する学科でした。将来、海に関係した仕事をしたいと考えていた史佳さんは「これだ」と思いました。
一方で、芸術的な勉強もしてみたく、「震災で損傷した文化財を修復する仕事はできないか」と思いました。それなら津波で亡くなった叔父に教わった陶芸も生かせます。造形を学ぶために山形市の東北芸術工科大を第2志望にしました。
2017年11月、岩手大推薦入試の面接がありました。史佳さんは親類の元漁師から「魚がとれない。魚を研究している人がいるのに、成果が漁師にあまり伝わっていない」と聞いていました。面接でその話に触れ、「漁師さんが困っている。解決したい」と志望動機を語り、論文試験を経て合格しました。
翌18年春、岩手大に入学しました。仮設住宅で6年暮らした後、やっと新居に移って1年で盛岡市のアパートで一人暮らしをしなくてはならないのは少し残念でした。
18年11月、待ちに待った海洋実習で三陸沖に出ました。3日間航海しましたが、そのうち1日はしけになり、史佳さんは船酔いで動けませんでした。
美しいと思っていた海の表面に網を仕掛けると、大量のごみが入ってきました。ピンセットでもつまめないくらいの小さなプラスチックごみも無数に入っていました。
実習後は休暇で帰省して海を見ると、ただうっとりしていた頃と違い、「あの船はどこの港に行くのだろう」と思ったり、ウニを見つけて磯焼けを心配したりと、海と人とのつながりを考えるようになりました。そして、「赤浜の海」というより、地球全体でつながっている海の一部なんだという感覚になりました。
普段の授業は「水産のコースだから、お魚を見ながら学べるのかな」と楽しみにしていたら座学が多く少し残念でした。ただ、魚が取れないのは環境と密接に関係していることを知りました。それを漁師や一般の人にわかりやすく説明するには、グラフや図を作って示す必要があります。子どもの頃から絵やデザインを描くのが好きだった史佳さんはあらためて「自分に向いている」と思いました。
大学2年になったばかりの昨年4月、理工学部2年の北田圭吾さん(20)からメッセージが来ました。「一緒に『学内カンパニー』をやらないか」。北田さんとは大学で吹奏楽部に在籍していた時、初心者の北田さんにサックスを教えて、友達になりました。
学内カンパニーとは大学が資金を出して模擬会社を作り、商品化などを進める制度。北田さんは学部での研究を試すために植物を使った芳香液を作ろうと思い、臨機応変な判断力がある史佳さんに副社長を任せました。他の学生も含めた計4人でいろんな草木で試行錯誤しましたが、精製がうまくいかなかったり、いい香りにならなかったりして完成しませんでした。
10月、台風19号が県内を襲いました。帰省していた史佳さんを心配し、北田さんはSNSで連絡を取りました。倒木の多さが話題になっていました。
「使えるんじゃない?」。史佳さんは倒れた木を再利用できないか提案。北田さんは岩手大の敷地内でドイツトウヒの大木が倒れているのを見つけ、枝から樹液を抽出し、4人で芳香スプレーを製品化しました。絵が得意な史佳さんはラベルやチラシなどのデザインを手掛けました。肴町商店街(盛岡市)の店頭に並べたところ、すべて売り切れました。
「ふうちゃん、きれいだねえ!」。1月12日、地元での成人式の朝。大槌町赤浜の史佳さんの実家には振り袖姿を見に次々と近所の人たちが訪れ、写真を撮りました。
一緒に体育館で雑魚寝したおばさんと震災当時の思い出話になりました。「大変だったけど楽しいこともあったね」。母の裕美さんが「避難所で行方不明者のリストに父と弟の名を書いた時には涙が出た」と打ち明けました。「私の前でもそんな話をしてくれるようになったんだ」と思いました。
少し緊張して成人式の会場に着くと、沖縄の大学に進んだ高校時代の友人、八幡千代さんが声をかけて和ませてくれました。母を津波で失いましたが、変わらぬ明るさでした。農協や役場など地元に就職した同級生もいました。経済的な理由で大学に行けなかった人もいました。史佳さんは亡くなった祖父が残してくれたお金で進学できたことをあらためて感謝しました。
その夜、中学時代のクラスメートと居酒屋で盛り上がりました。冗談を言う役、口を挟む役、久々に集まっても、昔と変わらない役割で会話が進みました。ただ、震災の話はしませんでした。「共通の体験をしているので、口に出さなくてもわかっているから」。そんなつながりが史佳さんには心地よかったのでした。
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東日本大震災から9年。被災地で大きく変わったのは、風景と子どもたちです。
ふうちゃんこと中村史佳さんは、今も津波の記憶がフラッシュバックするなど心の傷も癒え切っていませんが、人情あふれる漁師町で明るく素直に育ち、北田さんら学友たちにも優しく包まれながら、海を愛し、ふるさとを愛し続けています。
そんな子どもたちを私はたくさん知っています。これだけの経験をしたんだから、幸せにならないわけがない。そう念じながら、私はこれからも取材を続けます。
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