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感動

「ヒマと自由は違う」と言ったふうちゃん 避難所で会ってからの9年

大槌町の漁師町・赤浜で育った少女の目で「震災」を見つめました

震災の年の年末、全国からの励ましのお便りに返事を書いた中村史佳さん
震災の年の年末、全国からの励ましのお便りに返事を書いた中村史佳さん

目次

東日本大震災からまもなく9年が経ちます。津波で壊滅状態となった大槌町の漁師町・赤浜で出会った小学校5年生の少女は、今年1月、成人式を迎えました。避難所での暮らしを「ヒマと自由は違う」と表現した「ふうちゃん」。ふうちゃんの記憶に残る「3.11」は、恐ろしい津波だけでなく、友だちが握りしめていた「Hey! Say! JUMP」のキーホルダー、校長先生が守ってくれた卒業証書、避難所でもらったわたあめの味……。一歩一歩、歩んできた少女の視点でこの9年を振り返ります。

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「海を恨んだりしません」

私が震災直後から折に触れ、言葉を交わしてきた子供達の1人、中村史佳(ふみか)さん。「ふうちゃん」と呼ばれていた少女は、岩手大の2年生になりました。

農学部食料生産環境学科の水産システム学を専攻し、魚や海草の利活用や、加工、販売までを含めた6次化を学んでいます。大槌町をはじめ、三陸沿岸の水産業の復興に貢献できれば、と考えています。

毎週月曜の午後は、大学の実験実習の授業です。白衣に身を包み、ビーカーやフラスコとにらめっこ。化粧はしていますが、私が初めて会った小学生の頃の面影はそのまま残っています。

出会ったのは体育館の避難所でした。「連載漫画の続きが読みたい」と無邪気な悩みを打ち明けながら、幼い子を集めて遊んであげている姿が印象に残っています。その後も地域の行事を手伝うのを見かけて声をかけると、笑顔で近況を話してくれました。

史佳さんは漁師町の大槌町赤浜で生まれました。幼い頃から自然や生き物が好きで、いつも視界には海がありました。その海が、東日本大震災では大津波となって故郷を襲い、大切な人たちや家を奪いました。

「海を嫌いにならなかったの?」。何度か聞いたことがあります。でも史佳さんはいつもきっぱり答えました。「あの日の海は海じゃなかった。みんなの生活を支えてくれた海を、恨んだりはしません」

東日本大震災1カ月後、避難所で過ごすふうちゃんこと中村史佳さん
東日本大震災1カ月後、避難所で過ごすふうちゃんこと中村史佳さん

2011年3月11日午後2時46分

2011年3月11日。小学5年だった史佳さんは小高い丘の上にある赤浜小にいました。眼下には大槌湾が広がり、NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる蓬萊島(ほうらいじま)が浮かんでいます。

5・6年は複式学級で、午後からは6年と担任の先生が卒業式の予行演習のため体育館に行き、2階の教室には5年の6人だけが残っていました。

灯台を乗せた姿が「ひょっこりひょうたん島」によく似ているといわれる蓬萊島=2007年9月13日、菊地敏雄撮影
灯台を乗せた姿が「ひょっこりひょうたん島」によく似ているといわれる蓬萊島=2007年9月13日、菊地敏雄撮影

午後2時46分。突然、床の下で思い切り足踏みされたような揺れが来ました。「地震だ」。教わった通り、みんなで机の下に隠れました。先生が飛んできて、一緒に校庭に出ました。

大津波警報が発令されました。学校は町が津波の時の一時避難場所に指定していました。住民が次々と避難してきましたが、そこは安全な場所ではありませんでした。

アイドルのキーホルダー握りしめ

校庭には、地割れが走り、危険な状態でした。先生が持つラジオから津波の危険を知らせるニュースが流れていました。

先生たちは児童を連れ、いったん校庭より少し高い体育館に向かいましたが、余震がひどいことや、そこに津波が来れば逃げ場がないことから、また校庭に戻ってきました。

同級生の女子が「Hey! Say! JUMP」の山田涼介さんのキーホルダーを握りしめて泣いていました。史佳さんも動揺していたが、「大丈夫、大丈夫。ここは避難場所だから」と慰めていました。

祖母の浜田久喜子さん(88)も坂を上って校庭に避難してきました。史佳さんの家も祖父母の家も、海抜6.4メートルの防潮堤のすぐ前にありました。祖父の姿が見えず、「変だな」と思っていると、女性の叫び声が聞こえました。

「津波だ!」

声の方向を見ると、校庭から海の様子を見ていた知り合いのおばあさんでした。逃げるおばあさんの背後から、真っ黒な波が柵を越え、校庭に押し寄せてくるのが見えました。

こたつの足につかまって寝た

あちこちから悲鳴が上がりました。児童らは先生に連れられ、さらに高い場所へ逃げました。誘導中、腰まで津波をかぶった先生もいました。坂を上る一本道は細く、40人ほどで列を作って歩きました。

史佳さんは父の誠一さん(62)の姿を見かけて安心しましたが、父は裸足でした。仕事先から自宅に戻り、ぐちゃぐちゃになった家の中で仕事に使うパソコンを捜していると「ゴー」という音がして、裸足で玄関に飛び出したといいます。黒い波が流れて来たのでそのまま逃げ、助かりました。

先生は、児童に津波の様子を見せないように山道を歩きましたが、史佳さんは家が心配になり、木の間から見てしまいました。近所の家の黄色い屋根が海の中に浮いていました。「うちも流されたのかな」

日が暮れました。1人、2人と泣き始め、史佳さんも我慢できず泣いてしまいました。その夜、家が津波に遭うなど行き場を失った20人ほどが高台にある3軒の民家に泊めてもらいました。史佳さんは一人暮らしのおばあさんの家にお世話になりました。ストーブが暖かく、こたつの足の一本につかまるようにうずくまって寝ました。

ストーブが暖かく、こたつの足の一本につかまるようにうずくまって寝ました(写真はイメージ=PIXTA)
ストーブが暖かく、こたつの足の一本につかまるようにうずくまって寝ました(写真はイメージ=PIXTA)

震災翌日、家族の生死

震災翌日の早朝。史佳さんは外に出て眼下を見渡しました。港も宅地もがれきに覆われ、トラックが横倒しになり、道路にも下りられません。

しばらくして、別の避難先に身を寄せていた父の誠一さんが迎えに来ました。がれきの中から見つけた左右別々の靴を履いていました。大人たちはかろうじて津波を免れた「三協印刷」の工場兼事務所に集まっていました。祖母の久喜子さんもいて、お互いに無事だとわかって抱き合って泣きました。「おじいちゃんは」と聞くと、久喜子さんは「だめだった」と答えてまた泣きました。

祖父の清兵エさん(当時86)は元漁師で、オットセイの調査船にも乗っていました。外国人研究者の通訳が漁師の大槌弁を理解できないので、大槌弁を標準語に直す「通訳」をしていたそうです。両親が共働きの史佳さんは、夜まで祖父母の家で過ごしていました。浜を毎夕散歩する清兵エさんに、海が好きな史佳さんはよくついて行きました。清兵エさんは避難訓練では率先して避難していたのに、その日はなぜか久喜子さんが「逃げっぺ」と促しても動かなかったといいます。

翌13日、職場から大槌高校に避難した母の裕美さん(61)が山道を歩いて戻ってきました。浸水した大槌町立赤浜小の体育館を住民で掃除して、避難所生活が始まりました。

大槌町赤浜では津波で、2階建ての民宿の屋根に観光船「はまゆり」が乗り上げた=大槌町赤浜、2011年3月29日
大槌町赤浜では津波で、2階建ての民宿の屋根に観光船「はまゆり」が乗り上げた=大槌町赤浜、2011年3月29日

守ってくれた校長先生

体育館に避難する直前、祖母久喜子さんがヘリで運ばれました。薬が切れて血圧が200を超え、倒れたのです。、同じように高血圧で悩んでいた人と、使い捨てのコンタクトレンズを使い続けて目が真っ赤な人が多かったのを、史佳さんはよく覚えています。

体育館は津波が深さ1㍍ほど入り、中で亡くなった人もいましたが、赤浜には大人数が寝泊まりできる場所が他にありませんでした。掃除して中に入ったかと思うと、余震が来てみんなで外に避難し、それでも寒いのでこわごわ体育館に戻る、そんなことを繰り返していました。

史佳さんは、怖くて久喜子さんにしがみついていました。その久喜子さんも入院してしまい、心細かったですが、がまんするしか仕方ありませんでした。その経験は、今も心にしまわれています。

暖を取るため、みんなでカーテンや段ボールを体育館の床に敷き詰めました。さらに石油ストーブをつけると、目の前で「バン!」と音がして金属のふたが飛び、使えなくなってしまいました。海水に浸(つ)かったのが原因のようでした。

3月29日、体育館で卒業式が行われました。その時だけ場所を空けてもらい、卒業生は支援物資の普段着で出席しました。校舎の2階まで津波が来ていましたが、卒業証書は佐々木啓子校長が金庫に保管していたので無事でした。史佳さんは「さすが」と思いました。

佐々木校長は避難時も水に浸かりながら身を挺(てい)して児童を守り、学校再開まで何度か勉強会を開いてくれました。震災前は、校庭で育てたゴーヤでチャンプルを作り、食べさせてくれました。2年後、赤浜小の閉校とともに定年退職し、しばらくして病気で亡くなりましたが、史佳さんは今も感謝しています。

 避難所であった先輩の卒業式。前から5列目の左から2人目が中村史佳さん
避難所であった先輩の卒業式。前から5列目の左から2人目が中村史佳さん

わたあめのような心

春が来ました。貯蔵していた魚が津波で流されてがれきの隙間で腐り、異臭を放ちます。丸々と太ったハエが大量に発生しました。

史佳さんは小学6年になりました。避難所で退屈していたので、友達とハエたたきで「えいっ」と退治し始めると、大人たちはその様子に「いいぞ」と声援を送り、場が和みました。

時間はあるのに、好きな漫画も読めないし、まちに遊びにも行けない。
「ヒマと自由は違う」。新聞記者にそう話すと、紙面に掲載されました。

全国から励ましの手紙が30通ほど届きました。同時に「冷凍たこ焼きが食べたい。でも、電子レンジも冷凍庫もないから無理」と口走った言葉も載ったので、たくさんの冷凍たこ焼きが電子レンジごと贈られてきました。申し訳ないと思いつつ、ありがたく避難所のみんなで食べました。

避難所生活は4カ月半続き、多くの支援者が訪れました。綿菓子を作って振る舞ってくれた人もいました。疲れがたまり、気力がなくなりかけていた史佳さんは、その時の気持ちを作文に書きました。

「甘く優しい味が口中に広がった瞬間、小さく固いザラメのような心が、ふんわり大きなわたあめのようになった」

震災の年の年末、全国からの励ましのお便りに返事を書いた中村史佳さん
震災の年の年末、全国からの励ましのお便りに返事を書いた中村史佳さん

最後の授業と卒業式は「元の校舎」で

4月下旬、大槌町内の小学校が再開しました。史佳さんたち赤浜小の児童は校舎が被災したので、山を越えた吉里吉里小にバスで通うことになりました。でも、帰った後や休みの日は赤浜小の校舎にこっそり入って遊んでいました。

5月、その校舎に突っ込んだ車の下から遺体が見つかりました。叔父の浜田雅史さん(当時50)でした。消防団のメンバーと防潮堤の水門を閉めていて逃げ遅れ、行方不明になっていたのです。

史佳さんは身元確認のため、遺体安置所までついていきましたが、車の中で待つよう言われ、叔父のことを思い出していました。サーフィンや弓道をする傍ら、窯を持ち、野焼きの先生として知られ、県内の大会で最優秀になったこともあります。史佳さんも習っていました。みなに「まーくん」と呼ばれ、親しまれていました。

9月、町内4小学校合同の仮設校舎が完成しました。大人数の学校を知らない史佳さんは戸惑いましたが、少しずつ友達を増やしていきました。翌年春、最後の授業と卒業式だけ、元の校舎と体育館でありました。卒業生は5人。壇上で1人ずつ将来の夢を語りました。「野球選手」「漁師」「自衛隊員」「養護教諭」。史佳さんは「みんなを楽しませる漫画家になりたい」と声を張り上げました。

式の後、震災の夜に泊めてくれた民家に5人で駆けて行き、晴れ姿を見せました。

 震災1年後、卒業式に出席する中村史佳さん
震災1年後、卒業式に出席する中村史佳さん

史佳さんの人生は続きます。

赤浜で不自由なりにものびのび育って来た史佳さんですが、高校進学をめぐって親と大げんかになるのでした。その後も、被災者として見られる恥ずかしさ、フラッシュバックする記憶、悩んだ末に進んだ内陸での大学生活、そして抱いていた夢へ。町の風景とともに、史佳さんも大きく変わっていくのでした。

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