1996年に北海道テレビ(HTB)で生まれ、2002年にレギュラー放送が終了した後も、多くの人々から愛されている番組「水曜どうでしょう」。大泉洋さんを一躍スターダムに押し上げたことで有名ですが、ひときわ存在感を示していたのは番組チーフディレクターの藤村忠寿さんでした。大泉さんがピンチなときほど大笑い。その痛快さで、番組の虜になった人も多いのではないでしょうか。2014年から朝日新聞北海道版に続けてきたコラム「笑ってる場合かヒゲ 水曜どうでしょう的思考」が、書籍になったこの機に「視点を変えること」について話を聞きました。
――2014年からコラムを5年半続けられてきました。どんなこと書こうと思って始められたのでしょうか。
やっぱり、一番最初に書いたコラムにもあったように、「違う見方をする」っていうことです。
「水曜どうでしょう」っていう番組は、誰かにハプニングが起きることを常に待っているっていう番組だったんです、最初はね。
だからハプニングが起こった時、例えば大泉がバイクで突っこんだりとか、ユーコン川でカヌーで転覆しそうになったりってなったら、それが最大の見せ場なんです。
そこをどうやって面白くしようかって思ったときに、心配して「大丈夫ですか?」っていう声をかけちゃった瞬間に物事が鎮火しちゃうから。鎮火させないように「大丈夫ですかあ~?」って笑うんですよ。
そしたら向こうも「はあ?」「心配しろよ」みたいな感じになりますよね。でもこっちからすれば、そんなに大きな事故ではないから、「そんなにねえ」って思うんだけど。笑っていると不謹慎だと思われるんですよね。
――まさに「笑ってる場合かヒゲ」ですよね。
でも、はたから見ていたら危なくないし、みんながみんなで「大丈夫ですか?」って近寄って、みんなで物事を逆に大ごとにしちゃってるような気がして。
そういうことが世の中にもあって、なんか嫌だなあと感じたんです。それよりも、むしろみんなが「いやあ、もう大丈夫でしょ」って思ってる事の方が我々は危ない気がして、社会に対してその目線を持つことが大事だと、最近でもずっと思ってるんですよね。
――確かに今も、当事者とは関係ないところで言動が叩かれる、というケースをよく目にします。
東日本大震災で、大きくそういう流れができたような気がしています。コラムで震災のこともいろいろ書いているけど、悲しまなければ人として認められない社会っていうのも怖いなと思って。
「悲しい」としか思っちゃいけないっていう状況って、非常に後ろ向きで社会に対して何の役にも立ってないんじゃないかな。だったら泣いてるんじゃなくて、「こうしたほうがいいんじゃない?」とか「もうそれいらないんじゃない?」って言っちゃった方がいいんじゃない?
その方がよっぽど前を向いているというか、社会のためになっているというか。だから「悲しめよ」って言われるときには、笑っていたい、そういう感じかなあ。
――コラムの中で思い出深い回などありますか?
2回目だけど、旭山動物園と「水曜どうでしょう」が似てるっていう回かな。「この人うまいところ目をつけてるな」って(笑)
北海道の旭山動物園はパンダとか珍しい動物を売りにするんじゃなくて、普通の動物の生態をいきいきと見せてるんですよね。
「水曜どうでしょう」もそうだなって。普通の学生だった大泉さんをいきいきとして見せてる。生態もね、寝るそばから起きる姿から見せてるわけだから。だからパンダは必要ねぇんだ(笑)
――5年以上前のコラムも、普遍的な内容のものが多く、今も新鮮な気持ちで読める文章だと感じています。
結局は「見方」なんだよね。
基本的にコラムを書くときは、先週1週間で起こったことから考えるんだよね。「先週どこ行った」とかっていう書き出しの回も多いんだけど、書いているのは自分の物の見方だから。
世の中、誰かが「こうだ」って言ったら「そうだそうだ!」とか、誰かが「違う」って言ったら「違う違う!」っていうのが溢れかえっているから。
みんなが「そうだそうだ!」って言うときは、俺は「違うんじゃないの?」っていうのを常に言っている。みんなが「違う違う!」っていうことに対しては、「これでいいんでしょう」っていうことを僕は単純に言っている。それによってバランスを取っているのかな。
誰もがみんな同じ方向に行くのが、見ていて一番嫌なの。なんかみんな「死」の方に向かっていくというか……。
――死……?
そうそう、滅亡の方に向かっている気がして。
ヌーの大群みたいなのって、誰かが走るとみんなでガッと行くじゃん。それでみんな川に落ちて死んじゃったりするし。断ってもいいし、集団で渡らずに行くんだったらひとりで渡ってね、って思うし。
「あっちに食い物あるぞ~!」ってつったら、みんなでそれ食いに行ってさ。俺絶対行かないもん。絶対死ぬもんあれ(笑)
――コラムでは「夏祭りや花火大会に行っていないと夏を満喫できないみたいに言われるのが納得いかない」という回が印象的でした。
あれもヌーの大群で一緒でさ。「花火だ!」ってなったらウワ~!ってやってさ。家で線香花火をするのさえ嫌なんだ俺。「夏には花火をする」っていう決まりが嫌なんだよ。
――そういった反骨精神はどこから生まれてるんでしょうか?
本能じゃない? そっちに行ったら死ぬぞっていう本能じゃない?
――面白いのは、「水曜どうでしょう」のもうひとりのディレクター・嬉野雅道さんも書籍「ひらあやまり」で「ヌーの群れ」を例えに出していたんですよね。そこでは群れのような大きな生命体の中にいる「個」としての視点を大切にしたい、という内容だったのですが。
自分たちを守るために本能的に集まるっていうのもあるかもしれないよね。小魚とかもそうだよね。
でも俺違うんだろうね、「群れに入ってたら食われるとき一気に食われる!」と思って(笑)
例えば川を渡ろうとしても、数が多ければ後ろから押されるわけでしょ? 「早く行け!」なんて言って、人が多くなればなるほど、そういうことが起きるわけでしょ?
それをちょっとでも減らすために、「ちょっと後ろの方の人こっちきませんか?」「むしろこっちで遊んでから、川を渡りましょうよ」っていったら、こっちも平和に渡れる、みたいなことがあると思うんです。
だから、自分だけが助かろうっていう気持ちではない。まあ「先に渡っちゃいましょうか」っつって、何人か引き連れて渡っちゃうこともあるかもしれないけどね(笑)
――書籍の帯には鈴井貴之さんが「長い付き合いですが、最近この人が好きになりました」というコメントを寄せています。何が変わったからだと思いますか?
この6年間で一緒に芝居するようになって、鈴井さんのプロジェクトの「オーパーツ」では立場が変わるわけですよね。あの人が演出家で僕は出演者っていう。こんなことは誰もあんまり経験したことないですよね。
鈴井さんも、今俺のこと「番頭」って呼んでいるんだけど、僕は彼の補佐であり、彼に意見する人であり、役者で、彼を動かせる人であり。
今立場が変わって、鈴井さんの考え方が「どうでしょう」やっているとき以上にわかるようになったし、俺が補佐役に回ったときに鈴井さんも気付いたんじゃないか?「この人はなんて献身的な人なんだ」と(笑)
「なんて真面目でやってくれる人なんだ」と。「どうでしょう」ではディレクターだから引っ張っていかないといけないけど、補佐役に回った僕をありがたがってくれていると思いますよ。
そうでしょ? 良い人なんだよ? わがままだけじゃないんだよ、と。だから、「この人が最近好きになりました」は、「それは当たり前でしょう」って感じだね(笑)
立場を変えることによって、これまで以上に人間としての付き合い方とか、信頼度がものすごく上がった。「どうでしょう」やるにしても、ものすごくいい方向にいっていると思いますね。
――ありがとうございます。最後に、本を手に取られる方に一言メッセージがあればお願いします。
きっと日本にはローカルでものをつくってる人の方が、実は多いわけじゃないですか。東京のところでメインで仕事やっている人なんて実は少数で、ほとんど地方だから。そういう人にはいいんじゃないかなと思います。地方でうまいことやろうぜっていう感じです。
割といいこと書いてんじゃないかな(笑) 読みやすいしね。(コラムの)1個1個が短いからね(笑) 読んで損はないんじゃない?と思いますけどね。
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藤村忠寿さんが朝日新聞北海道版で続けてきた、5年半のコラム「
笑ってる場合かヒゲ 水曜どうでしょう的思考」(朝日新聞出版)は全2冊。「1」は発売中、「2」は2月7日に発売されます。