連載
#4 #カミサマに満ちたセカイ
宗教っているの?自分探し中の僧侶と、サブカルなキリスト教徒が激論

様々な価値観が入り乱れ、人々の悩みがネット上にあふれる現代社会。伝統宗教は、どんな「幸せ」の形を示せるのでしょうか? 実家のお寺を継いだ今も「自分探し」をしている僧侶と、教会関連のニュースを扱う専門紙を発行しながら、サブカルを活用した情報も発信するキリスト教徒。不安定な時代に、伝統宗教にしかできないことを、伝統宗教の「中の人」が本気で考えました。(編集・構成=withnews編集部・神戸郁人)
斬新な切り口に定評がある二人
今回対談したのは、僧侶の稲田ズイキさん(27)と、キリスト教徒で、教会についてのニュース媒体を発行する「キリスト新聞社」(東京都新宿区)社長・松谷信司さん(42)です。2人とも、宗教に関する斬新な語り口が注目されています。

現代の日本では、人々が宗教に親しみを覚える機会が少ないと言われています。伝統宗教に、何が出来るのか? 自らの存在意義を考え続けてきた立場から、それぞれの意見を交わしてもらいました。

「BUMP OF CHICKEN」を仏教で読み解いてみた
――お二人は、どうして今の活動を始めたのでしょう
その後、テレビの制作会社勤務や教員を経験して、2006年、たまたま今の仕事に就いたんです。すると、信者以外の人にとっては、教会に行くことの敷居がすごく高い、と気付きました。そうした経緯から、個人的に「絶対必要だ」と思ったことを、独断で続けています。
――なるほど。キリスト教にも、そうした側面がありますか?
たとえば、「ドラえもん」に「モーゼステッキ」という秘密道具が出てきます。作者の藤子・F・不二雄さんが、旧約聖書の世界を描いた映画「十戒」を見て、劇中に登場する預言者・モーゼから着想を得たとも言われているんです。
僧侶が「自分らしさ教」を信じる理由
――こうして振り返ると、宗教的なモチーフって、身の周りに見いだせるものなんですね。一方で、そこから興味を持って「寺や教会に行こう」とはなりづらい。こうした距離というのは、なぜ生まれてしまうのでしょうか?
今ってSNSを始め、「インフルエンサー」と呼ばれる人たちが、様々な価値観について発信しているじゃないですか。それに従って生きよう、と思っている人も少なくない。彼ら・彼女らがハッピーなら、無理に仏教を伝えることって、そんなに優先されないとも思います。
実は僕、今年5月から「家出」しているんです。寺を離れて、色々な人の家を泊まり歩いています。これまで、仏教について色々勉強してきました。でも結局、しっくりくる道が見つからない。だったら、自分なりの仏道を「DIY」したい。そんな気持ちが基になっています。

仏教は、自我の存在をよしとしません。苦しみの原因を、自分への執着に求めるためです。だから仏教は「自分がある」という思い込みを取り除くべきと考えます。
一方で、インフルエンサーが説く価値観や、資本主義などのイデオロギーは、自分があってこそ成り立ちます。それらに絡め取られ過ぎたとき、「自分など無い」「ただ『今』があるだけ」と思い直すきっかけをくれるのが仏教なんです。(自分が存在するという)虚構を消し去ってくれる。
でも煩悩があるからこそ、他人を愛すること、仏教で言う「慈悲」も実現されるんじゃないでしょうか。誰かのためになることをするには、「自分が何を相手に与えたいか」という視点が不可欠だと思います。
――自分が望むものを考え抜けば、おのずと他者につながる……ということですか
自分が仏教と共に生きる上で、何を大切にしたいのか。それを知ることが、「他人の喜びを自分のものとする」という、宗教の根本思想に関する、僕なりの解釈ですね。
被災地では津波などの影響で、多くの地域コミュ二ティが崩壊してしまいました。そうした状況下、現地の教会関係者は「我々がここにいる意味って何だろう」と考えた。その結果、「教会にしか真理はない」と引きこもっていてはだめだ、ということに思い至ったんです。
キリスト教徒は、日曜日に教会で礼拝をします。放っておくと、毎回同じ顔ぶれになってしまう。信者以外にとって、教会に行くハードルは高くなりますよね。だから稲田さんのように、牧師こそ「家出」して、色々な人と関わっていくべきではないでしょうか。まさに、これからの課題だと感じますね。