地元
椎葉さんと那須さんばかりの村……現地で感じた「落人伝説」のリアル
住人が〝椎葉〟さんと〝那須〟さんばかり、という村が宮崎県にあります。由来は1185年に起きた源平間の「壇ノ浦の戦い」にさかのぼると言われています。各地に伝わる「平家の落人伝説」のひとつなのですが、この村ではその後、源氏側と平家側が共生したと語り継がれています。山道を車で進んでようやくたどり着いた村で、落人伝説の謎を探るうちに「ここならありえるかも」と考えるように……落人伝説の真相にせまりました。(朝日新聞記者・浜田綾)
宮崎市中心部から車を走らせること約2 時間半。先の見えないカーブが続く山道を進んだ先に、椎葉村はあります。村の96%を森林が占め、おもな産業は農林業。約2600人が山間に散在する集落で暮らしています。
記者が初めて村を訪れたとき、すぐに気づいたことがありました。それは、「椎葉さん」と「那須さん」が多いこと。
村観光協会で出むかえてくれた〝椎葉〟記史事務局長(44)と職員の〝椎葉〟奈木沙さん(30)は、「村の人の半分くらいは『椎葉』か『那須』じゃないですかね」とさらりと口にしていました。
2人の話に「まさか」と内心思っていました…が、その通りでした。
村地域振興課の綾美智代主幹(50)によると、2011年におこなった調査では、村の住人の27%が〝椎葉〟姓、20%が〝那須〟姓でした。
つまり、双方の名字で約半分を占めていたことに。ちなみに、そのほかの名字で1割をこえるものはありませんでした。
「今も、そのころと比率はほとんど変わりませんよ。その影響か、役場内では下の名前で呼ぶのが慣例ですね。『椎葉』さんと『那須』さんじゃない人も名前で呼びます」と綾さん。
一般的に宮崎県で多い名字の〝甲斐〟真菜佳さん(22)=村観光協会職員=は、生まれも育ちも椎葉村。甲斐さんは、こんなエピソードを教えてくれました。
「『椎葉』と『那須』という名字が多いので、その名字の子たちをみんな下の名前で呼ぶんです。ただ、そのことに慣れ過ぎてしまって、ふとした時にその子の名字が『椎葉』と『那須』のどっちだったか思い出せなくなってしまうんです。これは、『椎葉村あるある』なんですよ」
ちなみに、今年4月21日に投開票がおこなわれた統一地方選挙では、村議会議員に立候補した11人のうち〝椎葉〟さんが6人、〝那須〟さんやそのほかの名字の候補者が1人ずつでした。
実は、この双方の名字には、平家と源氏が関係していると言われています。
椎葉村が舞台になった直木賞作家・乃南アサさんの小説「しゃぼん玉」でも、名字のことが扱われています。
平家の没落が決定的となったのが1185年に山口県下関市であった「壇ノ浦の戦い」です。戦に敗れた後、命からがら各地に逃げかくれた平家側の人たち。彼らの一部がたどりついた場所が、今の椎葉村とされています。
戦に勝った後も、平家残党に対する追討の手をゆるめなかったという源頼朝。生き残った平家の居場所を調べ上げ、椎葉村にいるという事実を数年かけて突き止めます。
ですが、この椎葉村ではほかの地域では見られない〝ある珍しい現象〟が起きた――。そう言い伝えられています。
村役場で働いていた時に村史の編集にたずさわり、現在は村観光ガイド協会で案内人をつとめる山中重光さん(79)に話を聞きました。
弓の名手として有名な源氏の名将・那須与一。彼は、源平間の「屋島の戦い」(高松市)で、平家の船上にかかげられた扇を弓矢で射抜いたエピソードでよく知られています。
山中さんによると、椎葉村に逃げかくれた平家の人たちを追討するのは、この那須与一のはずでしたが、病を患っていたため、彼の兄弟である那須大八郎が代わりに送られました。
そんな大八郎が椎葉村で目にしたのは、かつて栄華を誇った平家の人びとが細々と貧しく暮らす姿。その様子に胸を痛めた大八郎は、「討伐した」と幕府に偽の報告をした上で村に残ります。そして、平家の人たちに農耕の技術を教えたほか、平家ゆかりの広島県廿日市市の宮島にある厳島神社の守護神を勧請して祭るなど、手を尽くしたと言われています。
村に関する記述が残される史料は、17世紀以降のもの。村での生活や歴史に関する話はすべて、親から子へ、そして子から孫へと口承で伝えられてきました。
さて、椎葉村に残った大八郎は、平家の子孫である鶴富姫と恋に落ちました。そして、鶴富姫が大八郎との子供を妊娠している間に、大八郎には幕府から鎌倉へ戻るよう命令が下されます。
敵の子孫である鶴富姫を連れて行くわけにいかず、悲しみに暮れる大八郎。村を去る際、こう言づてしました。
「男児が生まれたら下野(大八郎の出身地である現在の栃木県)へ、女児であればここ(椎葉村)で育てよ」
女の子が生まれたため、鶴富姫とその子孫たちは椎葉村で暮らすことに。そして、大八郎への思いをこめて鶴富姫は〝那須〟姓を名乗りました。これが、村で言い伝えられている那須大八郎と鶴富姫の話の全容です。
こうした背景があり、村には、もともといた住人に加えて(1)源氏の子孫 (2)平家の子孫 (3)それぞれが結ばれた子孫が存在し、現在の村の人たちのルーツだと言われています。
山中さんによると、源氏側の先祖がいる人には大八郎のエピソードもあってか、「那須」という名字が好んで選ばれ、源平の争いが起きる前から村にいた住人、あるいは平家側の先祖がいる場合は「椎葉」という地名から取る人が多かったとのこと。
ところで、椎葉村で言い伝えられる「源氏と平家が協力し合って暮らした」というエピソード。山中さんが日本各地の文献を取り寄せて調べたところ、確認できた限りほかにはなかったそうです。
ただ、山中さんはこうも明かします。
「大八郎が『存在した』と証明できませんし、『存在しなかった』と証明することもできないんです」
そもそも大八郎は、存在自体に諸説ある人物です。
大八郎は、鶴富屋敷に伝わる家系図には記されていますし、彼が鶴富姫に送った子供の認知にかかわる署名つきの書簡も残っています。江戸時代に書かれた地元の古文書「椎葉山由来記」にも記載され、それぞれ椎葉民俗芸能博物館に展示されています。
ですが、それ以外の書物には一切登場しません。
山中さんは、大八郎について以下のように疑問をなげかけます。
「当時、平家が逃げ隠れたとされる地域は全国に相当数あったと言われています。こんな山奥の椎葉村に、わざわざ名をはせた名将の兄弟を送りこむでしょうか?」
「平清盛の子孫とされる鶴富姫が、椎葉村に逃げこんだことにはある程度の信憑性(しんぴょうせい)がある」としつつも、その後の言い伝えには「不可解な点が多い」と首をかしげます。
1600年代初頭、村で起きたある事件が史料に残っています。
鶴富姫の死後何代も経ったころ、彼女の子孫である4兄弟が村内で権力や発言力を持っていたとされています。彼らに対して、日に日に村人たちの反感は高まりました。
そして、その4兄弟の一人が夜襲をかけられ、村人に暗殺される事件が起きました。その後、夜襲に関わったとされる150人をこえる村人が処刑されます。
山中さんは、「大八郎の存在について肯定も否定もできない」としながらも、「鶴富姫と結ばれた相手は、相当な有力者だったに違いないでしょう」と分析します。何代も離れた那須4兄弟の代まで、大きな権力が保たれていた事実から考察してのことでした。
村の北東部にある、昔ながらの特徴的な石垣が残る十根川集落。全10軒のうち、9軒が〝那須〟姓です。かつて源氏側が、この十根川集落を拠点にして、平家残党が暮らす地域を調査していたと言われている集落です。
今も村に残る〝平家や源氏とのつながり〟を感じさせる名残として、山中さんは以下の事柄を指摘します。
周辺地域には見られない椎葉村独自の方言として、武家言葉や公家言葉が残っていること。また、椎葉村の昔ながらの一般的な家の構造について、部屋の名称やつくりなどが公家住宅と同じであること。海のない村にある椎葉厳島神社は、広島県廿日市市の宮島にある厳島神社の方を向いて建てられていること。
そのほか、「村に残る」と決めた源氏側の武将たちの名前がつけられた集落が複数存在していることを挙げました。
そもそも、村の人たちにとっては、平家側にせよ源氏側にせよ〝よそ者〟に変わりありません。
一体なぜ、「村の人たちは彼らを受け入れ、源氏と平家の人たちも協力しながら仲良く暮らした」という伝承が、村では語り継がれたのでしょうか。
単刀直入にたずねると、山中さんは少し考えた後で「すべては伝承のため、文書は残っておらず、真偽を定めることはできません」と言い、こう続けました。
「村の生活の成り立ちが深く関係しているのだと思います」
椎葉村の自然環境は大変厳しく、季節や天候の激しさに常にさらされてきました。村の人たちは先の読めない自然を相手にし、山の斜面を開墾し、作物を作って生きていかなくてはなりませんでした。危険を伴う焼き畑の作業も欠かせません。周囲の人との〝共同作業〟が必至の環境であることは明らかです。
山中さんは言います。
「生きていくためには敵も味方も関係ない。助け合わなければ死んでしまう。そうした暮らしから得た知恵、精神的な教え、あるいは強い希望や自戒を込めながら、語り継いできたのではないですかね」
こうした教えは、現在も連綿と受け継がれているのかもしれません。〝よそ者〟に対する特別なスタンスを実感したという人に話を聞けました。
小説「しゃぼん玉」の映画化の企画からたずさわったプロデューサー・豊山有紀さんです。椎葉村は映画の主な舞台となり、撮影に備えて、豊山さんは何度も椎葉村に足を運びました。そして、撮影期間となる2016年の春には、1カ月ほど椎葉村を拠点にして撮影をおこないました。
東京生まれ横浜育ちの豊山さんにとって、椎葉村での体験は特別なものとなりました。
「人との関係の築き方が、これまで訪れたどの地でも経験したことがないものに感じました。椎葉村の人たちに強く感じたのは、ただそこにいる私自身をそのまま受け入れてくれたことです」
滞在し始めたころ、出会った地元の住人には、「どこからきたのか」「何をしているのか」といった質問を一切されず、「これ食べてみてね」「○○には行ってみた?」などと優しく話しかけられました。
「これは椎葉村に限らず、宮崎全域で感じたことなのですが」と前置きした上で言います。
「どの言葉でもありきたりになってしまう気がして、表現しきれません。ただそこにいるだけで心が洗われるような景色があって、そこに住まう人たちが加わると、もう〝故郷〟です。私にはいわゆる〝田舎の故郷〟がありませんが、きっとこういうものなのかなと。どれだけ時間が経って訪れても『ああ、帰ってきたな』と思える場所なんです」
そして、豊山さんは原作を読んで知ったという村に伝わる伝承について、こう話していました。
「〝敵同士である源氏と平家が協力し合って暮らした〟……この伝承は、すごくロマンがあると思います。でも、同時に『椎葉村ならありえるだろうな』と簡単に納得できてしまうんです。そういう懐が深い土壌であることを肌で感じましたから」
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