感動
65キロを完走した88歳の自転車レーサーがくれたもの 戦争・震災の末
山あり谷ありの65キロを自転車で駆け抜ける88歳がいる――。こんな話を聞き、自転車イベント「ツール・ド・東北」を記者(53)が一緒に走ってみました。参加者約4千人で最高齢という宮城県石巻市の伊東隆さん。戦争を経験し、震災では親しい人を失い……満州事変があった1931年生まれの伊東さんの背中を追いながら、被災地との触れ合い方を考えました。(加藤裕則)
「ツール・ド・東北」は東日本大震災の復興を支援するイベントで、ヤフーと仙台市を拠点とする河北新報社が6年前から主催し、毎年秋に開かれています。
年々変わる被災地の風景を見ることができ、被災者らともふれあえるとあって参加者が絶えず、今は国内を代表する自転車イベントです。
テーマは「応援してたら、応援されてた」。今年は宮城県石巻市を主会場に全6コースが設けられました。
記者は朝日新聞石巻支局で震災報道に携わり、現在は東京で勤務しています。昨年に続き、最短のコース「女川・雄勝フォンド」(65キロ)に参加しました。
「山あいを駆け抜ける爽快感や、女川湾や雄勝湾を一望でき海の景色を満喫できる」という主催者のうたい文句通り、魅力的なコースです。しかし、リアス式海岸沿いに数十メートルのアップダウンが続いてかなり手強く、「88歳で本当に完走できるのだろうか」と心配になりました。
スタート地点の石巻専修大(石巻市)に9月15日早朝、伊東さんがサングラスをかけて愛車のロードバイクにまたがって姿を現しました。
黄色がアクセントとなった白色ジャージとサイクリング用のパンツをはいた姿は若々しく、遠目ではとても90歳近いお年寄りとは思えません。
伊東さんはこの日、いつも通り朝4時に起き、約12キロ離れた市郊外の自宅から愛車の自転車でやってきたといいます。携帯する水筒には、麦茶を入れ、準備万端です。
伊東さんが大会に参加するのは初めてではありません。初参加の4年前には、今回参加するコース「女川・雄勝フォンド」(65キロ)を完走しました。3年前には「北上フォンド」(100キロ)も完走しています。
昨年は大会1カ月前の腰痛で出場できなかったのですが、実績は十分です。4回目となる今年は「いま一度、初心に戻りたい」と考え、最初に参加した「女川・雄勝フォンド」を選んだ、と語ってくれました。
伊東さんは満州事変のあった1931年(昭和6年)に生まれた88歳。食べ物のない時代に育ちました。それでも若いころには陸上競技や卓球で鳴らし、81歳まで石巻市のスポーツ推進委員も務めました。
身長149センチ、体重47キロ。若い頃に比べて9センチ、7キロほど小柄になったそうですが、引き締まった身体は精悍です。
2人の娘と3人の孫に恵まれ、いまは95歳の妻とふたりで暮らしています。
自転車に乗り始めたのは10年ほど前。いわゆる「ママチャリ」に1年ほど乗った後、クロスバイクを購入しました。
12年には自転車で走行中にバイクにはねられて左足を骨折しましたが、自転車なら足腰への負担が少ないと考えて翌年に再開。16年にはスピードの出るロードバイクへと乗り換えました。ブリヂストンサイクル製で約25万円したそうです。
毎朝4時に起床し、妻が起床する前の7時まで石巻市郊外を約40キロ走ることが日課です。
印象的だったのは、「昨年、運転免許証を返納しました」とさりげなく言ったこと。「車と違って眠くなることもないから」と冗談を言いますが、自動車の運転を諦めても自転車には乗り続ける、その熱意に驚かされました。数キロ先の市街地にはいつも自転車で出かけ、買い物を済ませます。
大会では、長女の牧野沙代美さん(60)がロードバイクで伴走します。伊東さんの影響で5年前から自転車を始めたそうです。
出走を前に、参加者全員で東日本大震災の犠牲者1万8千人に参加者が黙とうを捧げます。
大阪出身の伊東さんは10代半ばからこの地域で暮らし、国鉄職員として働きました。
地域には何人もの友人が暮らしています。あの日は、職場の仲間だった先輩夫婦を津波で亡くしました。この地域の人たちが多くのものを失った日です。
スタート地点の石巻専修大を約20人ずつ、時間差をもうけて走り出しました。
伊藤さんはやや緊張し面持ちでゆっくりとこぎ始めました。
集団は大学を出て、田園風景の中を駆け抜けます。
途中、去年まであった仮設住宅は姿を消していました。黄金色に実った田んぼと、何棟もの真新しい住宅。東日本大震災から8年半が過ぎ、復興を実感します。
参加者は道路の端を一列になって走ります。時速は15~20キロ。伊東さんは集団の最後列につき、軽めのギアで、両足をすこし開き気味にしてペダルをくるくると回します。
決して速くはないのですが、ふらつくような様子もありません。
気温は約25度。日差しは容赦なくライダーを照りつけます。
伴走する記者はあっという間に汗ばみ、この先がすこし心配になりました。
15キロほどを約1時間かけて走ると高台に造られた戸建ての復興住宅を横目に、大きな被害があった女川町の中心部に入りました。
大漁旗に迎えられ、JR女川駅前の休憩所にロードバイクが滑り込んでいきます。
女川は国鉄職員だった伊東さんが何度も訪れた場所です。震災後、10メートル近くもかさ上げされ、当時の面影はほとんどありません。
休憩所では、郷土料理の「女川汁」が参加者に振る舞われていました。
名産のサンマのつみれと豆腐、長ネギが入った塩味のあつあつの吸い物を、伊東さんもほおばります。
「これが一番うまいね」と明るい表情です。
沙代美さんはメモを取り出し、4年前のタイムと比べます。「前回より早いです」。
順調な走りで、うれしそうです。
休憩後、造成された高台をたち、リアス式海岸にはった道路を走ります。
急な上り坂で、車では体が斜めになる感覚の場所です。曲がりくねっていて、先が見えません。
伊東さんのペースががくんと落ちました。
長い坂を半分ほど上ったところで、伊東さんはサドルから腰を上げて両足を地面に下ろしました。
「ダメだ」とこぼします。息が切れてつらそうです。
ゆっくりと車体を押して歩き始めましたが、ここでリタイアするのでは、と心配になり、記者も自転車を降りて一緒にゆっくりと歩きました。
10分ほど自転車をおしたでしょうか。どうにか坂の頂上にたどりつき、穏やかな太平洋を望むことができました。
ここでは、長女の沙代美さんがすこし心配そうな様子で待っていました。青と深緑が入り交じり、太陽光が反射する海を眺めながら体力の回復を待ちます。
5分ほど休むと、ふたりはロードバイクにまたがってこぎ出していきました。
下り坂では両手に力を入れ、ペダルを踏みしめながら加速します。
時速は40キロを超えていますが、身体が揺れることはなく、バランスのとれた走りです。
沙代美さんが「私が怖くなるほど、スピードを出すんです」と話していたことの意味を実感しました。私も必死で後を追います。
アップダウンが続いた後にようやくたどり着いた石巻市雄勝地区の休憩所では、特産のホタテが焼かれていて、おにぎりも振る舞われました。伊東さんは食欲もあって元気です。
私はここでかつての取材先と1年ぶりに再会しました。他県からボランティアで石巻に来て、そのままここに住み、生きている人たちです。
被災地には、自分の生涯を掛けて応援を続ける人たちがたくさんいて、頭が下がる思いです。
みな、明るい表情です。「なんだ~来てたの」と声をかけられ、再会を喜び合います。
このあとは、長い急な坂で知られる釜谷峠が立ちはだかります。
心配していると、「釜谷峠をおそれるなGOGOカトー」と書いた小旗を渡されました。
暑さで相当しんどく、両手はふるえていました。だが、これは頑張らねばと自分に言い聞かせます。
釜谷峠に挑みます。
ここでの獲得標高は約100メートル。ここを乗り切れば、あとはゴールまでほぼ平坦です。
伊東さんはスピードを落とし、数メートル先を見つめたまま、ひたむきにペダルをこぎ続けました。必死の形相で、集中している様子が伝わってきます。
この坂を自分のぺースでのぼりきりました。88歳でこの坂を……。伊東さんの体はどうなっているのでしょうか。
その後は、北上川の右岸をひたすら上流に向けて走ります。
向かい風も吹きつけ、走っても走っても前に進まない感覚に襲われます。それでも伊東さんの速度は一定。すぐ後ろを走っていたつもりの記者はだんだんと引き離されていきます。
途中、信号待ちで「渋滞」が発生していた場所でやっと追いつきました。
数キロ先のゴールで伊東さんの写真をとれるよう必死でペダルを踏み、地元の小学生らとともに、ゴール前で伊東さんを出迎えました。
長女の沙代美さんと並んでゲートをくぐり、伊東さんはようやく笑顔を見せました。
伊東さんが走ったのは、65キロ。休憩時間を含めて約6時間かけました。
途中、チェーンが外れたり、信号待ちの時間が長かったりとタイムロスもあったのですが、「4年前よりも早く走ることができ、勾配が急な坂道でも自転車を押して歩くことがすくなかった」と振り返りました。
すこし高揚した表情で伊東さんは言いました。「早め早めにギアを切り替えました。考えて走ってんですよね。体力の衰えを感じたけれど、みなさんのおかげで止まってはいられないと思った。今までで最高の走りでした」
「来年も走りますか」と問いかけると「やれるかな。90までやると言ったからね」と笑顔です。
10月に入り、朝はだいぶ暗くなり、気温も下がりました。
近況を尋ねると、伊東さんは午前や午後の暖かい時間に、30キロほど走っているそうです。
「体調に気をつけ、来年も参加したい。90歳まで走りたい」と目標を掲げてくれました。
伊東さんと走っていて気がついたことがあります。
この大会の特徴のひとつが、沿道の被災者や市民から「頑張れー」と声を掛けてもらえることです。伊東さんは一人ひとりに「は~い」と手を挙げて応え、ときには軽く頭を下げます。「抜きまーす」と声をかけて伊東さんを追い越していくライダーには、「はい、どう~ぞ」と応じます。
こうしたやりとりがうれしそうで、自身のエネルギーに変えているように思えました。
復興やボランティアと聞くと、これまで経験のなかった人だと身構えてしまうかもしれません。でも、伊東さんの姿を見ながら、声を掛け合うだけで生まれるものがあるのかもしれないと感じました。
年々、風化してしまう震災の記憶。現地を訪れて、一緒に感じることから得られるものがあるかもしれません。
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