連載
#31 「見た目問題」どう向き合う?
見た目問題、「感動ポルノ」と言われても報じる理由 長男への思い
アルビノや顔の変形、アザ、マヒ……。外見に症状がある人たちがジロジロ見られ、学校や就職、恋愛に苦労する見た目問題。朝日新聞の岩井建樹記者は、これまで20人を超える当事者を取材し、今夏に著書「この顔と生きるということ」を出版しました。「記事は感動ポルノでは?」「当事者とどう接すればいいのか?」。こうした反響や問いとも向き合いながら、見た目問題を報じ続ける思いをつづりました。
私が見た目問題に関心を持った大きなきっかけは、長男の誕生です。
2010年6月、生まれたばかりの長男の顔をのぞき込み、「あれ、何か変だ」と違和感を覚えました。私が知っている赤ちゃんの泣き顔とは違っていたからです。口元がゆがんでいました。「表情筋の不形成」。右顔の筋肉や神経が少ないため、口角をうまく動かせず、笑ったり泣いたりするときに表情が左右非対称になります。右目はまばたきができないため、弱視になる恐れがあるとのことでした。
「笑顔は大事」
そんな誰もが疑わない価値観がある社会のなかで、笑った表情をうまくつくれない長男は幸せになることはできるのか……。そんな不安が私に押し寄せました。同時に、親として、そしてジャーナリストとして、ある思いがわき上がりました。「長男と同じように、外見に症状がある人たちが具体的にどのような困難に直面し、その現実にどのように対処しているのか、知りたい」。そんな思いで取材を始めました。
取材を通し、私が実感したのは「顔には慣れる」ことです。
顔が大きく変形している当事者と初めて会ったとき、私は驚き、目のやり場に困りました。ただ、30分も話していると、違和感は薄まり、話の内容を聞き取ることに集中していました。取材が終わるころには、何も感じなくなり、ごくごく普通に接していました。
そう、顔には慣れます。確かに、最初は特徴のある外見に戸惑うかもしれません。でも、慣れてくると、人はビジュアルだけで他人を見なくなります。そうなれば、違和感も薄まり、話す内容や雰囲気、内面などトータルな人間性に目が行くようになると思います。
私が外見に症状がある人たちを報じる意義は、ここにあると考えています。
私の記事を通し、いろんな見た目の人がいることを知って、慣れてほしい。見た目問題は、LGBTなど他のマイノリティーの問題と比べれば、まだまだ知られていません。メディアで取り上げられることも限られるなかで、私は粘り強く報じ続けたいと考えています。
私の中に多くの偏見や思い込みがあることも取材の中で、気づかされました。
長男が生まれたとき、「まだ男の子でよかった」と思った自分がいました。「女性のほうが、外見が重視される」という考えが私に染みついていたのでしょう。外見に疾患のある女児の親に、そのことを告げると、「男の子だって顔でいじめられたら、つらいでしょう」と言われてハッとしました。
そもそも、なぜ私は長男の将来を不安に感じるのか。笑顔がコミュニケーションの大切なツールだという社会通念があるためです。そして、「普通の笑顔でなければならない。ゆがんだ形の笑顔では受け入れてもらえない」と私が思い込んでいたためです。
そんな私の考え方は取材を重ねるうちに、どんどん変わっていきました。「顔には慣れる」のだから、長男の表情にも慣れてしまえば、周りの人たちにとっても単なる特徴の一つでしかなくなると思います。そして、長男が屈託なく笑う姿は、私の中にある偏見を解きほぐしてくれました。少々ゆがんでいようが、心から楽しく笑っているかどうかは相手に伝わるもので、愛想笑いよりもよほど魅力的だと感じています。
人にとって、外見は自分のアイデンティティーや人生の幸福度に結びつく重要な要素です。そんな外見に悩み抜いた末、当事者がたどり着いた生き方や心構えに、私の価値観は揺さぶられることが多々ありました。いくつか紹介します。
「この見た目なので、初対面の人は(私に)話しかけにくいと思う。だから自分から話しかける。その結果、傷つけられるような反応が返ってくることも覚悟している」
「顔についてはあきらめている。あきらめることで楽になれることがある。代わりに、服装や言動には気をつけている」
「魅力的な人間になろうと決めました。内面を磨き、人に優しく、人の話をよく聞く人間になろうと」
どうでしょうか。多くの人が抱える、外見や対人関係の悩みを解消するためのヒントが、当事者の言葉にはあると思います。
「記事は感動ポルノだ」との批判を受けることもあります。
「苦労したマイノリティーが頑張って逆境をはね返して、幸せになる感動ストーリー」は、メディアが陥る典型的なパターンであり、私が書いた記事の中には、そのパターンにはまっているものがあるのは確かです。
こうした批判を真摯に受け止め、多様な当事者の姿を報じるように心がけています。
当事者の中にも、いじめや就職差別を受けた人もいれば、まったく受けなかった人もいます。生きづらさを抱えている人もいれば、特徴的な外見を武器や個性ととらえている人もいます。立派な人もいれば、そうでない人だって当然います。経験も、その経験に対する意味づけも、一様ではありません。そして、当事者は特別な人でもなんでもなく、私たちと同じように、日々の些細なことに悩んだり、喜んだりする人たちです。
忘れてはいけないのは、私の取材を受けてくれる人は少数派であるということです。外見の悩みをある程度折り合いをつけており、覚悟をもって取材に協力してくれる人たちです。一方、今まさに深い悩みの中にいて、声をあげることもできない当事者も多いと思います。
「当事者と街中で会ったときに、どうやって接すればよいでしょうか」
非当事者からよく出る質問です。突き放して言うなら、これを当事者に尋ねることは、ちょっと変だと思っています。普段、相手に「あなたとどうやって接すればいいですか」なんて聞かないのではないでしょうか。
結局、同じ人間なんだから、普通に接すればいいと思います。街中で当事者を見かけたとき、思わず見てしまうのは、仕方ないと私は考えています。ただ、そこから「二度見、三度見はしない」ことは対人関係として常識的なふるまいでしょう。
もし相手の顔が気になったら、本人に聞いてみるのも一つの手だと思います。普通にコミュニケーションをとりながら、「失礼かもしれませんが……」と聞き方さえ間違えなければ、大きな間違いは起きないと思います。
実際、「(私の)外見が気になるなら聞いてほしい」と言う当事者もいます。ただ、「見ないでほしい。触れないでほしい」と考える人もいます。いろんな考え方があるのは当然で、その対応に、マニュアルなんて存在するわけがありません。相手のタイプや状況に応じて、自分なりの対応をする。これは相手に外見の症状があろうがなかろうが、他人と関係を深める上で大事なことだと思います。
円形脱毛症で体毛を失った研究者の女性は、髪のない女性の生きづらさの原因を次のように分析します。
「脱毛症の生きづらさの原因は、髪の毛がないことそのものではない。女性に髪の毛がないことをタブー視し、隠すべきだと求める社会の側にある」
見た目問題も、当事者の「見た目」ではなく、社会側の「見る目」にこそ、原因があると言えるでしょう。
当事者は、社会に適応するため、そして幸せになるために、努力をしています。でも、本当はそんな努力はしなくても、生きづらさを感じない社会になるのが理想です。そのためには、社会が当事者を「見る目」を変える必要があります。外見の多様性を認め、決してタブー視しない。私の長男について言えば、「うまく笑えなくたっていいじゃないか」と、多くの人が受け止めてくれる社会になってくれたらと願います。
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