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「せんせいだいすき、チュー」少女が問いかける在宅医療という選択
小児がんの一つ「乳児白血病」で2018年12月9日に亡くなった添田侑花ちゃん(3)が残したビデオメッセージがあります。「ゆか、せんせいだいすき、チュー」。ベッドの上から投げキスを送られた「せんせい」は、東京から車で1時間かけて埼玉に訪問診療する小児科の在宅医でした。両親が「後悔はありません」と言えるのも、自宅で家族に囲まれながら最良の時を過ごせたことで入院生活では見られない侑花ちゃんがそこに居たからでした。11カ月で白血病を発症した少女の最期を通して在宅医療という選択」を考えます。
今年8月、埼玉県吉川市にある侑花ちゃんの自宅を何度か訪ねました。
母親の英子さん(35)と父親の博史さん(37)、弟(2)、そして療養を始めた途中から祖父母も同居しています。リビングの一角には、折り紙で作った作品があちこちに飾られています。その中には、大好きだったアンパンマンのキャラクターもありました。
発症からの経過を聞いていると、英子さんはこんなエピソードを話してくれました。
「病院ではシャイな子でね、ありがとうが言えませんでした。どんな先生にも上から目線で反抗していて……」
「私の中にもテーマがありました。先生から(亡くなるのが)『近いです』と聞いたとき、残りの時間で何ができるかなと思ったんです。スマホでいろいろ検索しました」
比較的大きな子どもは、亡くなる前、治療や看護をしてくれた医師や看護師に手作りの品をプレゼントしているようでした。侑花ちゃんはまだ3歳。そんなとき思いついたのが、スマホでビデオメッセージを撮って配ることでした。
「私(ママ)にだけ見せる感謝の姿勢」を、医師や看護師らお世話になった人たちにも届けたいと考えました。
2018年12月3日と7日、ベッドに横たわる侑花ちゃんのメッセージをスマホで撮影しました。一つひとつに笑顔がこぼれます。
ばんそうこうに大好きなキャラクターの絵を描いてくれた訪問看護師には、「シールつくってくれてありがとう」「ゆか、かんごしさん、だいすき、チュー」。
ママとパパへは「ママとゆか、だいすき」、パパへは「パパ、だいすき」。そして普段はやってくれない投げキスを、何度もカメラに向かって繰り返してくれました。
埼玉県立小児医療センターから引き継いだ、赤羽在宅クリニックの小児科医、森尚子医師(42)と宮本二郎医師(46)にも、「ゆか、せんせいだいすき、チュー」。手の動きが悪くなり、投げキスも両手を前後するだけですが、思いが詰まっていました。
森医師や宮本医師が侑花ちゃんと出会ってから約1カ月ですが、侑花ちゃんは生後11カ月で発症し、家族と一緒に闘ってきていました。
2018年11月1日、埼玉県立小児医療センターの医師から赤羽在宅クリニックの森医師のところに連絡が入りました。
「余命1~2週間」
「時間がなくて、家に帰してあげたい子がいる」
白血病を発症し、臍帯血(さいたいけつ)移植や抗がん剤、放射線といった治療を重ねてきたものの、再発を繰り返し、治験も十分な効果が出ないということでした。
赤羽在宅クリニックの相談員、永井恵美子さん(44)にも、小児医療センターのソーシャルワーカーから連絡が入りました。
「輸血対象の患者です」
「地域的に埼玉県まで来ることができますか」
「地域のクリニックは在宅で輸血をしてくれないんです」
森医師はこう振り返ります。
「白血病の患者に、輸血ゼロで家に帰すことは不可能だと思います。白血病は正常な血液を作れない病気です。輸血して補わなければ、確実に寿命を短くしてしまいます」
宮本医師は、2018年3月まで大阪市立総合医療センターで小児緩和ケアをしていました。そこでは在宅で輸血を続ける子どももいました。難しいことではありません。
森医師は、小児科専門医、小児血液・がん専門医です。宮本医師は、小児科専門医、血液専門医です。昨年4月に赤羽在宅クリニックの小児在宅医療部門が立ち上がるまでは、2人とも総合病院の緩和ケア病棟で働き、スキルを磨いていた専門医です。
宮本医師は、東京都の血液センターに連絡を取り、手続きを始めます。森医師は、遠方の患者でかつ輸血が必要な子どもを引き受けることへの理解を院長に求め、受け入れ準備を始めました。入院している小児医療センターの医師も、週1~2回、通院で輸血をすることもできると説明していましたが、自宅からは車で高速道路を使って40~50分かかります。森医師と宮本医師は「私たちがやるしかないですよね」と決断。24時間対応で医薬品や医療器具を届けてくれる在宅薬剤師は東京都足立区の薬局が、訪問看護師は地元の訪問看護ステーションが、それぞれ引き受けてくれました。
2018年4月3日、臍帯血の再移植を受けた侑花ちゃん。英子さんは当時の心境をこう振り返ります。
「私たちの気持ちは、ここまで来たのだから絶対進むしかないという感じでした」
7月2日に退院。2度目の移植なので再発すると予後が厳しいという思いを抱きつつの退院でした。
「2カ月持てばいいな」
「楽しめるのは8月までか」
このように感じながらの退院でした。それでもこのときは、小児科の在宅医や訪問看護師ら在宅チームが作られませんでした。
筋力が落ちていることもあり、侑花ちゃんは自分で歩くことができなくなっていました。リビングにあるジャングルジムで遊び、できるだけ抱っこして散歩に出かけ、ケーキやクッキーを一緒に作るなどして家族生活を楽しみました。
8月29日、2度目の移植でも再発が見つかり、9月3日に入院しました。医師や博史さんは、まだ治験や過去に使った抗がん剤などによる治療の選択肢に可能性を見いだしていました。
「現状維持ができるのではないか」
「治療をしないと、どんどん悪くなっていってしまうのではないか」
一方、英子さんはこう感じていました。「(医師との話し合いでは)いかに持たせるか、という話がでていましたが、私はこれ以上苦しい思いをさせる必要がないのではないか、と思っていました」
結局、過去に使って効果があった抗がん剤を使用しましたが、副作用が強く、10月5日にはICUに運び込まれました。
英子さんは育休中で、弟の子育てもありました。この日は、自宅にいた英子さん。病院から連絡があって駆けつけると看護師にこう言われたそうです。
「侑花ちゃん意識戻ったから話しかけてください」
英子さんはこのとき、こう思いました。
「危ない状態なのに、下の子の面倒をみるために一度家に帰ったことを後悔しました」
「後がないなら、病院と自宅を行ったり来たりする生活をやめて、家族が一緒にいたい」
侑花ちゃんには、腸に穴があく消化管穿孔(せんこう)が起こり、手術を受けていました。
一般的に重い病気の子どもを持つ家族が「在宅医療への移行=病院を追い出される」というイメージをもってしまうことは少なくありません。英子さんは10月下旬、博史さんに家に帰ろうと自分の気持ちを打ち明けました。
博史さんはこう振り返ります。「私としては家に帰るというのは、治療をやめる感覚だったので、病院にいた方が長く現状維持できるのではないか、また道が開けるのではないか、と思っていました。でもそれが結果として、消化管穿孔で苦しめてしまっていたんだな、とも思いました」
消化管穿孔になり、口から飲むことも食べることもできなくなってしまったことに、英子さんは「さらなるショック」を受けていました。
「果たして侑花の幸せに、私たちの選択がつながっていたのか、一気の自信がなくなりました」
10月30日夜、博史さんは英子さんに自分の気持ちを整理して考えを伝えました。
「自分があきらめられなかったので苦しめてしまった。帰れるんだったら、家に帰ろう。何が起こっても後悔しない」
10月31日、家族の一致した気持ちを小児医療センターの医師に伝えました。博史さんも会社の上司に病状を伝え、家族の看護や介護のときに使える有給休暇を使って自宅で家族と終日過ごすようにしました。
こうして、侑花ちゃんの在宅医療を始まりました。
11月5日に退院。当初は、これまでの退院や一時帰宅とは違い、どのようなことをすればいいのか、どう過ごせばいいのか、不安があったと言います。輸液を切らさないように、点滴のラインが抜けないように、と英子さんと博史さんが交代で24時間見守っていたそうです。
退院に合わせて在宅医の森医師と看護師らが訪問して処置をし、何かあったら訪問看護ステーションや在宅クリニックに連絡するよう伝えていました。それでも、ナースコールのボタンを押せば、看護師や医師が24時間駆けつけてくれる病院とは違います。
「侑花ファースト」
これは退院直後の家の中のルールです。消化管穿孔で口から食べることができない状態のため、家族もリビングダイニングで食事をすることをやめました。リビングダイニングから一番遠い玄関近くの部屋で、お弁当を買って食べました。弟と遊ばせたいと思っても、点滴のラインにつながれているため、どう遊んだらいいのかわかりませんでした。
「いつ死を迎えるか分からない」
「どういうふうに死に至るのか分からない」
ベッドサイドで看病しながらスマホで一生懸命検索し、最初の1週間ぐらいは「ピリピリモード」でした。
そんな雰囲気に気付いた訪問看護師から、普段通りの生活を続けるようすすめられ英子さん夫婦は「はっとさせられました」と言います。
「侑花に、何で家に帰ってきてもらったのかというと、家族と一緒の空間で生活していることを実感してもらうためでした」(英子さん)
「家族を実感してもらうのは、いつも通りの生活の中に侑花がいること」(博史さん)
「弟とけんかをしても、点滴のラインが外れても、そのときに対応すればいいんだ」(英子さん)と、気持ちが少し楽になったそうです。
11月のある日、森医師は侑花ちゃんにこう尋ねました。
「ゆかちゃんのすきなもの、なあに?」
「いちご」
うれしそうに答えてくれました。病院では消化管穿孔で食べることを禁じられていましたが、すでに画像検査では穴が閉じていたこともあり、森医師は無理のない程度で少し食べてみてもいいですよ、とアドバイスしました。博史さんは早速、栃木県の両親に連絡し、いちごを農家にわけてもらい、持ってきてもらいました。スライスしたいちごを少しずつおいしそうに食べていたそうです。
英子さんは自宅と病院での侑花ちゃんの違いをこう表現します。
「小児医療センターの姿とは全然違いました。先生や看護師さんの言うことを聞かない。お風呂や体ふき、薬を飲むとき、その都度、押し問答でした。それが家で家族と過ごしていると、とても素直になっていました」
「森先生を見ている侑花の姿は、私たちが病院で見たことがない姿でした」
一方このころ、英子さんは、スマホで写真を撮っていると、侑花ちゃんがピースサインをできなくなっているのに気づきました。涙が止まりませんでした。
森医師からは「手遊びでも指先を使うことになるので、遊びの中で取り入れてみたらどうですか」とアドバイスを受けました。訪問看護師からのアドバイスで、ベッドで横になりながら体ふきをするときに侑花ちゃんが家族みんなの手を洗うことを始めました。自然とリハビリができる工夫です。
英子さんや博史さんは、「在宅に移って2週目からは楽しい時を過ごすことができて、この生活をいつまでも続けられたら」と思ったそうです。
11月中旬になると病状が落ち着き、ベッドのうえでパズルやアンパンマンのDVD、クッキーやケーキづくりを楽しめるほど体調がよくなりました。森医師と宮本医師も、輸血だけでなく、ステロイドのほか、モルヒネなどで痛みのコントロールをして治療にあたりました。11月19日には、スポーツドリンクを10~20cc、ケーキを一口食べられるようになったそうです。
ところが、11月29日に届いた採血の結果は、それまで安定していた白血病細胞が急増していることを示すものでした。12月3日の定期訪問での採血では、1週間前と比べて、血液中の白血病細胞は3倍以上の10万近くに増えていました。この結果を見た森医師は4日夜、急きょ、両親に直接会い、1時間ほどかけて「クリスマスまでは難しいと思います」ということを説明しました。
森医師は「もし、やはり家よりも病院で、いつでも先生や看護師さんを呼べる環境の方が安心できるというお気持ちがあれば、これからの時間を病院に戻って過ごすこともできますが、家で過ごすお気持ちに変わりはないですか? 私たちはこのままおうちで侑花ちゃんとご家族を支えたいと思っていますが……」と伝えました。
英子さんも博史さんも涙を流しながら、「気持ちは変わりません」と答えました。
「クリスマスまでは厳しい」と説明を受けた時には、別の葛藤があったそうです。
「痛みが増してきていたので、モルヒネの量を増やすと寝ている時間が長くなります。意識がない中で亡くなるのがいいのか、痛がっていてもコミュニケーションがとれる状態で亡くなるのがいいのか……」
12月8日夜、博史さんと弟は、侑花ちゃんと「おやすみ」と言ってハイタッチをしました。そして目を閉じた侑花ちゃんから「バイバイ」と一言返ってきたそうです。しかし、9日午前2時ごろ、痛みが止まらなくなりました。モルヒネや座薬の痛み止めも効果がないようでした。
12月9日午前5時ごろ、呼吸がつらそうで様子がおかしいと感じた英子さんは、博史さんを起こしました。午前6時ごろ、訪問看護師に連絡を入れました。
訪問看護師からはこう尋ねられたそうです。
「今日の訪問早く行きますか?」
「どうしたいですか?」
この時、英子さんと博史さんは「訪問看護師を呼んでみとってもらうのか、家族だけでみとるのか」という選択をしなくてはいけないのかと感じたそうです。
リビングでは、酸素飽和度が下がり、アラームが鳴り続けている状態でした。家族全員で声をかけ、午前7時半、赤羽在宅クリニックに電話をかけました。
「もう危ない状態です」
電話を受けた赤羽訪問クリニックの院長が駆けつけ、亡くなったことを確認しました。訪問看護師もいつもより早めに駆けつけてくれました。
今でも「後悔はありません」と言う英子さんと博史さん。背景には、在宅医や訪問看護師の判断やアドバイスによって、闘病生活が劇的に変わったということがあります。
子どもの闘病やみとりと向き合った英子さんや博史さんにとって、何が難しく、何を侑花ちゃんが教えてくれたのでしょうか。
「本人の意思をいかにくみ取るのかが難しかったですね」(英子さん)
「11カ月で発症したので、ああしたい、こうしたい、という意思表示ができないので、親が決めていかないといけません」(博史さん)
また、英子さんは「ICUに入っていたとき、治療の合併症で亡くなるのはつらいと思っていました」が、病院での治療中は在宅医療に触れる機会がなく、なかなか在宅のイメージがわかず踏み切れなかったと言います。
最後に英子さんはこう話してくれました。
「普通に何事もなく過ごしてきた日々と、これだけの経験をしてきた日々では、雲泥の差です。夫婦で本音で真剣に生きることに向き合うきっかけを侑花は与えてくれました」
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