連載
#30 #withyouインタビュー
クラス全員からの拒絶……ゲイ映画・橋口亮輔監督の居場所の見つけ方
<はしぐち・りょうすけ>
1962年、長崎市生まれ。長編2作目、浜崎あゆみ主演の「渚のシンドバッド」(95年)はロッテルダム映画祭グランプリ。2001年の「ハッシュ!」、08年の「ぐるりのこと。」は、いずれもキネマ旬報ベスト・テン2位。15年の「恋人たち」は同1位に選ばれた。
――どんな子供時代でしたか
おとなしい、目立たない子供でしたね。親から「外で遊んできたら」と言われても、家の中で本や漫画を読んだり、人形で遊んだり。小学校でも中学校でも、成績はオール3。「平凡な人間だなあ」と自分でも思っていました。
――学校で嫌な思いをしたことはありますか
小学生のころは色白で太っていたので、「白ブタ」と言われることはありましたね。
中学1年の夏休みに転校をしたんです。転校する直前、クラス全員から拒絶される、ということがありました。誰も口を聞いてくれないんです。遊んでいる輪に入ろうとすると、みんな逃げていく。「俺たちはだまされないぞ」と敵意むき出しで言われたりして。仲の良かった男の子に「みんな変なんだけど、どうしてなのか教えて」と聞いても、口が重くて。そんな状態が続きました。
――思い当たることはなかった?
ないです。ショックでしたよ。1学期の最終日、先生から「橋口君は転校します。最後の挨拶を」と言われて、どう話していいか分からなかった。すると先生が、ある男の子を当てたんです。「A君、橋口君に何か言うことはないか」って。後で分かったんですが、このA君が、僕がひどいことをしたと周りに言いふらしたようなんです。
――先生から事情を聞かれなかったんですか
先生は僕に確かめもしないで、それを真に受けていた。公平であるべき先生が、一方の意見だけ聞いて、僕には弁解する機会も与えてくれない。悪いことをした子供を哀れむような目で見ている。自分が生きている社会は、こういう決めつけ方をするんだ、と違和感や不信感をもった出来事でした。
――その当時、ご両親との関係は
僕は一人っ子でしたが、両親のケンカが激しい家庭でした。何かあると怒鳴りあい、刺す刺さないの騒ぎになる。近所とのトラブルもあって、中学1年で転校したのは、それも原因です。新築の家に引っ越して、2階に自分の部屋を初めて与えられた。でも1階から両親の怒鳴り声が聞こえると、自分の存在を消して、じっとうずくまっていた。両親は僕が中学3年のときに離婚しました。
――寂しかったですか
変な話ですが、親がいなくてもよかった。親よりも家がほしいと思っていたんです。自分が安心できる場所が。
母親から「私に付いてきて」と懇願されましたが、僕は自分の部屋を手放したくないという理由だけで、あまり好きでもない父親と暮らすことを選びました。母親からは随分なじられましたよ。「あんたは計算高い子だ」って。
――映画との出会いは、そのころでしょうか
中学から高校にかけ、「未知との遭遇」や「スターウォーズ」を見て夢中になりました。父親につけこんで8ミリビデオを買わせたんです。「両親が離婚した、かわいそうな子」を演じたんですね。
自分で脚本を書き、高校で入ったブラスバンド部や、演劇部の子たちに出演してもらって、SFやミュージカルの映画を撮りました。映画づくりは自分の救いだったし、ほっと息をつける場所でした。
――自分が同性愛だと気づいたのはいつごろですか
初恋の相手は、小学校1年生のころ、初代仮面ライダーの主人公・本郷猛(ほんごう・たけし)でした。親戚が集まった宴会で、何を思ったか仁王立ちになって「本郷猛のお嫁さんになる!」と叫んだんです(笑)。
高校のブラスバンド部では男の先輩を好きになりましたが、プラトニックな関係で、自分が同性愛だとは思わなかった。「もう、ごまかし切れない」と気づくのは大学の時ですね。
――大阪芸術大学に進み、映画を学びます
父親からは「お前は平凡な人間だ」と言われていました。それでも「自分にしか撮れない映画を」と内面に向き合っているうち、自分が同性愛であることに気づいてしまった。当時、同性愛と言えば「変態」「ホモ」「オカマ」といった言葉がついてきましたから、自分は醜い存在なんだろうか、普通に生きてはいけないんだろうか、と真剣に悩みました。でもやっぱり、そうじゃないだろうと。社会の価値観とは一体何なのだろうって思った。それが自主映画のテーマにもなりました。
――学生時代に恋愛をしましたか
初めて告白したのは大学3年の時。同じ大学の男子に「あなたのことが好きです」と打ち明けたんです。清水の舞台どころじゃない、死ぬ思いでした。すると相手は「別にいいんじゃない?」と言ってくれた。世の中が急にパッと明るくなりましたよ。
2人で一緒にドキュメンタリーを撮ることにしました。「同性愛は気持ち悪いものか」がテーマで。でも、作品づくりに打ち込むあまり、相手の心に本当に差別はないのか、気持ち悪くはないのか、どんどん追い詰めてしまい、人間関係が壊れてしまった。作品は未完のままです。
――大学を中退した後も、自主映画を撮り続けますね
20代は、出口の見えない暗いトンネルを進んでいる状態でした。自主映画を続けていましたが、激しく自分を突き動かすようなものはなかったし、生きている実感もない。映画監督になれるとも思っていなかった。ただ、映画は1人ではつくれない。世界と自分をつなぐ唯一のものでした。ひたすら自分と向き合いながら、生きていく道を探していました。
――24歳で、自主映画を制作する若者たちを描いた「ヒュルル・・・1985」が「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」で入選します
東京で受賞パーティーがあって、そこで大島渚監督に初めてお会いしました。「なぜ映画をつくったの」と聞かれて、子供時代のことや、親が離婚したことを話すと、「そうか。でもね、映画監督にとって、思春期のころに親の離婚を経験するのは、大切なことなんだよ」と言ってくれた。これほど優しい言葉はない、というくらいの響きでした。
講評では「優れた映画監督が一生に一度撮れるか撮れないかの青春映画だ」と、ほめてくださった。平凡でしかない自分に個性があるんだ、という喜びで満たされましたね。
――27歳の時、男子高校生の親友への恋心を描いた「夕辺の秘密」でPFFグランプリを獲得。その奨学金として、劇場用作品の監督デビューが決まります
男に体を売る青年の青春物語を撮ろうと考えましたが、プロデューサーからは「ホモの気持ちが分からない。なんで男が男と寝るのか」と言われ、2年間、脚本を書き直し続けました。スタッフからも「監督も無名、役者も無名、内容がホモ。こんな映画、いったい誰が見るんだ」と散々でした。
――その映画「二十才の微熱」は1993年に公開され、大ヒットを記録しました
日本中から手紙が300通ほど来ました。「同性愛が親にばれて死のうと思ったけど、この映画をみて、やめました」「人とうまくやっていけなくて悩んでいたけど、自分は人と違っていいんだと気づきました」。若い人たちからの真剣で率直な言葉でした。
当時はバブル経済の延長で、「明るいことが正しい、暗いのは悪」という風潮があった。でも僕と同じように、無理して明るいノリをしているけど、本当の自分は違う、という人たちが絶対いると思った。その人たちのための映画をつくったら、届いた。
作品が完成した時は30歳。同性愛の自分は醜い存在ではない、生きていいんだ、ということを証明するまでの20代でした。初めて、自分は映画監督になれると思いました。でも僕の作品で誰かが傷ついたり、もしかしたら死んでしまうこともあるかもしれない。表現するというのは、それだけ重いことなんだということも学びました。
――10代や若い世代に伝えたいメッセージはありますか
子どもたちは敏感です。大人のうそや偽善を、すぐに見抜く。まじめな子ほど、誰にも相談できず、自分で問題を解決しなければと悩んで、命を絶ったり、孤独を募らせて引きこもったり、ということがあると思います。こうやって僕が話しても、本当に苦しんでいる子の耳には入らないかも知れない。
でもね、絶望の中でも、助けてほしいと手を伸ばせば、握り返してくれる手は必ずある、と思うんです。
――監督自身、2008年の「ぐるりのこと。」の後で、苦しい経験をしたと聞きました
映画関係者からの詐欺にあい、被害に苦しみました。精神的にも金銭的にも行き詰まってしまった。友人たちも去って行きました。「誰も助けてくれない。みんなうそつきばかりだ。愛や希望を語ってきたけど、もう何もかもおしまいだ」。僕は40代後半で、どん底の何年かを過ごしました。
でも、ある映画プロデューサーが、お弁当を持って毎日のように自宅を訪ねてくれて。恨み言ばかり言っている僕に、「橋口さん、映画をつくりましょう」と辛抱強く言い続けてくれた。それで少しずつ立ち直り、まだ映画は撮れなかったですが、俳優志望の人たちを集めた演技のワークショップを開くことになりました。2015年の映画「恋人たち」には、ワークショップで知り合った俳優たちが出演しています。
――演技のワークショップは、どんな感じでしたか
40人くらい、若手の役者や新人、未経験者もいました。僕自身どん底だったから、全てをさらけ出しました。生徒に即興の恋愛劇をやってもらったんです。「自分らしさを出して」とアドバイスすると、「私は不細工だし、個性なんてないです」と、ぽろぽろ泣き出す人もいました。
でも何度も何度も繰り返すうちに、その人の生活や考えていることがにじみ出て、心打たれる瞬間があった。見ているみんなも泣いている。芝居の原点に立ち戻った感じで、とっても美しかった。僕に伝える力はもうないと思っていたんですけど、伝えることは意味があるんだなって思えた。
ものを伝えれば、笑ってもらえる、泣いてもらえる、感動してもらえる。僕は映画づくりしかできないですが、そんな瞬間を引き出すことができれば、と思っています。
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