地元
1964年の聖火リレー「謎の1枚」なぜ鎧!?現地を訪ねてみたら……
スマホ時代に開かれる2020年の東京五輪では、膨大な写真がSNSなどにアップされるでしょう。1964年の東京五輪、モノクロ写真がメインだった時代にもたくさん撮影されました。中でも全国を巡った聖火リレーを伝える写真には、貴重な地方の様子が残されています。五輪自体初めて知る人が多かった時代。いったい、どんな気持ちで聖火を迎えたのか? 当時の思い出をたずねると「訳も分からず、掛け声を叫んでいた」「子育てでそれどころじゃなかった」。写真だけを手掛かりに突撃した現地で見つけたのは、人情味あふれるリアルな五輪の姿でした。(地図地理芸人・こばやし)
今回、訪れたのは鹿児島県。きっかけは、朝日新聞さんからきたメールです。
「ここに写っている場所と人ってわかるもんですかね?」
……雑です。
とはいえ、大学で地理学を勉強し高校社会の教職免許と地図地理検定資格を持っている「地図芸人」として活動する私を見込んでのこと。
「これ、わかったら面白そうですね!」と返すと「ですよね! じゃあお願いします!」という返事が(やっぱり雑!)。
メールにはモノクロ写真が添付されています。そこには海岸線で聖火らしき物を持って走る人と、よろいかぶと姿の少年たち。
写真からは、不思議な迫力が伝わってきます。なんだかんだいっても、2020年の東京五輪に向けて温まってきたのを見ると、1964年も、さぞかし盛り上がっていたのではないか。おらが村に聖火が来るなんて、大イベントだったはず!
ということで、1964年の東京五輪の聖火リレー写真を握りしめ鹿児島へ向かいました。
モノクロ写真を見て思ったのは、データの少なさです。今はスマホで撮っても日時、場所、登録していれば人物もデータ化されますが、当時の写真、鹿児島で撮られたという以外は、ほぼ皆無。
データ的には、何というか美術館の絵画と一緒です。モナリザの人物が誰かわからないのと一緒。ミレーの落ち穂拾いも場所がわからなかったら気になる! 昔の写真は、そのレベルにデータが無いのです。
というわけで、鹿児島空港に到着したら、高速バスに乗り市内を目指します。
市内から市電の路面電車に乗り継いで、向かった先は鹿児島県庁。
県庁で聞けばさすがにわかるだろうと、いきなり本丸から攻め込みました。西郷さんがエスカレーターで豪快に焼酎を飲み干すロビーで待つこと5分、文化スポーツ局という部署に案内されます。そこで課長さん含め3人が出迎えてくれました。
こちらは大荷物に汗だくのTシャツ、ジーパン、しかもアポなし。「情報を得られる!」という期待より「怒られる!」という恐怖が先に来て、門前払いを覚悟で写真を見せると……。
みなさん興味津々。生まれる前のことなので、もちろん記憶はないものの、あれじゃないか、ここじゃないかと、いろいろと考えて下さいます(やさしい!)。
心強い3人のアドバイスから、よろいの写真は、のぼりの文字から伊集院市、海岸線の写真は薩摩大川方面ではないか、という説が出てきました。さらに県庁近くに旧鹿児島空港があり、そこに聖火が到着したという情報と、当時聖火が走ったルートの資料、そして「頑張ってください!」という言葉をもらって県庁を後にしました。
旧鹿児島空港に向かって歩いていくと、言われてみれば滑走路に見えなくもないけど、どうみても住宅街。
当時のターミナルはスーパーマーケットに変わっていました。
普通のスーパーなので、面影はどこにもないと思いきや、店内に旧空港の写真が飾られていました。たしかにここは空港でした。この後、近くの鹿児島市立図書館で当時の古地図を発見し、本当にここが空港だったことがわかりました。
しかし、辺りには何の説明もなかったので、聖火の面影を見つけることはできませんでした。
次は、県庁の方からもらった伊集院という情報を手掛かりに、まずは伊集院小学校に電話してみることに。
対応してくれたのは教頭先生。聞くところによると、伊集院小学校では、写真に写っている紙のよろいを今も作っているというので、見せてもらえることになりました。
言ってみるもんだし、かけてみるものだと思いながら、市電に揺られいったん宿に戻りました。
次の日、鹿児島線で伊集院へ、
約束の小学校は今年150周年の歴史ある小学校。教頭先生と校長先生が迎えてくれました。
ここ伊集院小学校では6年生全員が親子で紙よろいを4日間かけて作るそう。
鹿児島には紙よろいを作る風習があるのか? と思って聞いてみると、この小学校だけとのこと。出来上がったよろいは家に持って帰るけど、中学生になるとほとんどの子どもが捨ててしまうそう。少し寂しそうな教頭先生です。
ここで、今回の目的である写真を見せると、教頭先生の表情が一変。
「仕事が細かい! ここまでは、今はできない!」
めちゃくちゃいいリアクションで、テンションが上がっています。
この勢いをかって、紙よろいを着てみたいとお願いしたら、なんと校長室にあるものを着させてくれました。
たしかに、これはなんだかテンションが上がります。
この地区では「紙よろい保存会」というがあり、当時甲冑(かっちゅう)を着て聖火リレーを応援した方と会うことに。先生方にお礼をして、小学校から歩いて日置市役所へ向かいます。
この辺りで気づいてきたのですが、地方は徒歩がつらい……。すぐ近くが平気で30分という慣れない距離感に戸惑いながらも、歩いて市役所に向かうと、約束していた門松慶一さんの登場です。
今回の旅、電話での口約束でしか連絡をとっていないという突撃取材ばかり。本当に会えるかどうかわからないプラス、実際に会うと「おぉ! 電話の声はあなたでしたか!」という出会い系サイトの待ち合わせのようなドキドキ感が得られて、不思議な気持ちになります。
早速写真を見てもらうと「これが私です!」とうれしそうに指をさしてくれました。
当時、小学校5年生だった門松さんは、なんで沿道に連れてこられたのかも知らなければ、オリンピックさえ知らなかったらしく、訳が分からず、言われるがまま「チェスト!(鹿児島弁で頑張っていこう)」と叫んでいた、と懐かしく振り返っていました。
五輪がどんなもので、自分たちが何をしたのかは、1カ月後のテレビを見て知ったそうです。門松さんは現在日置市観光協会の会長をなさっていて、2020年の東京五輪のことをたずねると、同じ2020年に鹿児島で開催される『燃ゆる感動 かごしま国体』を成功させてたい! と力強くおっしゃっていました(鹿児島国体は10月3日開会、東京五輪は7月24日開会)。
2020年の聖火リレー、鹿児島県は4月に来ることになっています。門松さんは「ぜひ紙よろい姿で応援したい! 写真に写っていて、まだ生きている友達もいる!」とうれしそうにおっしゃっていました。その時はうかがいます!
写真を撮った場所について聞くと「みんなに聞いてくる!」と写真を持って、日置市教育委員会へ。そこで委員長たちと一緒に「これは3号線だ! 3号線!」と大盛り上がり。道の駅阿久根の近くだと教えてくれました。そして、教育委員会にも紙よろいが。
いよいよ、門松さんと一緒に当時写真を撮った場所へ。
当時とはだいぶ変わっていましたが、ここでパシャ。門松さんありがとうございました。
海岸線の写真の場所とされる薩摩大川駅へは肥薩おれんじ鉄道で向かいます。
まずは現地の人に聞き込み調査。
お話を聞いたのは、畑仕事中のおばあちゃん。年齢は88歳です。
「聖火リレーは娘は見に行っていたけれど、自分は見ていない。この写真を見ると戦争中暗渠(あんきょ)に隠れていたのを思い出す。当時はこの写真よりも、もっと松が多かったの。松にノコギリで傷を付けて、松やにをとって、軍の燃料にしていたの。松ぼっくりや松の葉を燃料代わりに拾ってきたことを思い出す」
とにかくオリンピックよりも戦時中の松の記憶がよみがえってきます。
当時は子育てでオリンピックどころではなかったようです。
その後、同じ畑に来た、別のおばあちゃん(86)はリレーを見たことがあるという証言が。
「この時は川内にいて、西の方で聖火リレーを見た記憶がある。当時は何のことかわからないけど、見に行く人が多かったので行った。自分の記憶では盛り上がっていた記憶はない。松がもっとあったはずなのに。おかしいな、この場所はもっと松があったはずなのに」
聖火リレーの記憶よりも松の記憶の方が鮮明です。
写真の場所へ、歩いて海岸線を目指す途中で会った3人目のおばあちゃん(74)は、当時19歳だったそうです。
「川内で保育士をしていたので、本当は見たかったけど、見に行けなかった。いま74歳で、もう1回オリンピックが見られるなんて思わなかった、今度は聖火を見たい! 人生100年になっているから3回目のチャンスもあるかもしれないよね! 3回目も見たい!」
2回目もまだなのに、3回目へ情熱を燃やしていました。
そして、3人目のおばあちゃんから写真の場所の詳しい位置を教えてもらい、歩いて目指します(つらい……)。心が折れそうになりながらも、なんとか目的の場所に到着。たしかにこの場所です。でも車がバンバン通って危ないので、写真を撮って道の駅に戻ります。
道の駅近くで当時に思いをよせて聖火リレーの格好でパシャ。
市内に戻り旧県庁を眺めながら、鹿児島の方々はみんなやさしい方ばかりだったなと感傷に浸ります。
声かけて話聞いてくれる率=90%! 伝説のナンパ師でもここまで高くないでしょう。
タクシーの運転手さん、信用金庫の方、お菓子屋さんの店員さん、消防署のみなさん、古本屋のご主人、道行く人、ほとんどの方が、写真を見て真剣に考えてくれました。
こんなに断られないものなのかと、逆にやさしすぎて心配になるくらいでした。
鹿児島のご当地タレントで、東京時代は同じ事務所で芸人をしていた、かわき亭げそ太郎に聞くと「鹿児島の人は人情味があって温かい人が多いんですよ。だから親身になってくれるんです。僕みたいに……」と解説してくれました。
たしかにげそちゃんは長く志村さんのバカ殿に仕えてたけど……。
印象的だったのは、写真を見て「当時はそれどころじゃなかった」と答える方が多かったこと。
オリンピックよりも、会社でがむしゃらに働いた記憶、子どもを育てるのに必死だった思い出がよみがえっているようでした。
考えてみると、当時は日本で初めての五輪。インターネットもなく、五輪がどんなものか知るための情報があんまりなかったのかもしれません。
盛り上がるもなにも、五輪がどんなものか知らない。今回、話を聞いた人の中には、聖火リレーが五輪だと思っていた人もいたほど……。実際は、みんなが見にいくから、つられて行ってみたという人が多かったのかもしれません。
そんなリアルな様子に触れつつも同時に、五輪はたしかに人生の大切な1ページとして刻まれていたのも事実でした。
だからこそ、見ず知らずの芸人に、あんなに優しくしてくれたのでしょう。1枚の写真によって、あんなに盛り上がるなんて、想像以上のテンションでした。2020年の五輪のチケットは高すぎて申し込めなかった私ですが、年を重ねれば、そんなエピソードも思い出となり、熟成されていくような気がします。
テレビゲーム機初期のRPGのような今回の旅。データのなかった当時の写真は、鹿児島の人情によって、大切な記憶となり現像できました。
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