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丸山議員「戦争」発言の罪深さ 「ビザなし交流」経験の記者が痛感
北方領土の元島民に国会議員が「島を取り返すには戦争しないと」と言ったことを知った時、私はその罪深さを思い、元島民やその子孫の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。この出来事があった北方領土での「ビザなし交流」に、私も過去2回参加していたからです。(朝日新聞編集委員・藤田直央)
まず事実関係をおさらいします。ロシアが実効支配する北方領土の国後(くな・しり)島に5月11日、元島民らが参加する「ビザなし交流」の訪問団が訪れました。今回の件で日本維新の会を除名になった丸山穂高衆院議員(35)=大阪19区、当選3回=もそのメンバーでした。
その夜に島内の施設で団員らの懇談会があり、団長で国後島出身の大塚小彌太さん(89)に、同行記者団が取材をしていました。そこへ酒に酔った丸山議員が割り込みました。
丸山議員は「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と聞きました。大塚さんは「戦争なんて言葉は使いたくないです」「戦争はするべきではない」と繰り返しましたが、丸山議員は「戦争しないとどうしようもなくないですか」と問い続けました。
やり取りの詳細はこちらをご覧下さい。
私はこのやりとりを報道で知って、まず元島民に「戦争で島を」と繰り返した丸山議員の罪深さを思いました。国民を代表する国会議員が、戦争の被害者である元島民の気持ちを、どうしてこんなに平気で踏みにじれるのかと。
そして、政治記者としてふだん国会議員を取材する一方で、「ビザなし交流」で元島民や子孫の方々と一緒に北方領土を訪れたことのある自分にも、責任の一端があるように思え、とても申し訳ない気持ちになったのです。
北方領土問題という、まさに国家の問題に携わる国会議員が、その当事者である元島民の方々に真摯に向き合うよう促す記事を、自分は書けていたのかという思いでした。
私の北方領土での体験をもとに、改めてお伝えします。今回の残念な出来事の舞台となった「ビザなし交流」が本来はどういうものかを説明しておくとわかりやすいと思うので、そこからです。
日本からロシアへ行くにはロシア政府発行のビザが必要ですが、問題は北方領土です。実効支配するロシア政府のビザを得て日本国民が北方領土に入ることは、終戦時にロシアの前身のソ連軍が侵入して以来の不法占拠が続いているという日本政府の立場と相いれません。
そこで米ソ冷戦が終わった後の1991年、日ソ共同声明で「ビザなし交流」を始めることに合意しました。北方領土のロシア住民と日本の人々が交流し、領土問題の解決に向け相互理解を図るというもので、お互いが訪問する際に相手国のビザはいりません。
この枠組みで1992~2018年度に、日本から北方領土へ13791人、北方領土から日本へ9800人が船で渡りました。日本からは訪問団の形で年に数回訪れており、元島民や子孫、国会議員を含む返還運動関係者のほか、報道関係者も参加できます。
新聞記者の私も「ビザなし交流」に2回加わりました。訪問団を乗せた船に根室から揺られ、2002年に国後島と択捉(えと・ろふ)島へ、16年に再び択捉島へ。その道中、高齢化が進む元島民や、その子孫の方々が、とても複雑な思いを抱えていることを知りました。
元島民の方々には、故郷への思いがずっとあります。厳寒、強風の地ながらも豊かな自然に囲まれて過ごしたかつての暮らしや、戦争で突然ソ連軍に島を追われた話を聞き、また、日本人墓地で先祖の墓に手を合わせるその姿を見て、感じました。
でも、訪れた島では、ロシア人の定住が進み、開発が進む様子を目の当たりにすることになります。海に突き出た頑丈な桟橋、進む道路の舗装、室内プールや舞台を備えたスポーツ文化会館、島内二つ目の空港から飛び立つ飛行機――。16年に私が択捉島を14年ぶりに訪れて見た変化です。
太平洋を挟んで米国と向き合うロシアにすれば、北方領土は冷戦後といえども要衝であり、統治に力が入ります。択捉島出身で16年に「語り部」として参加した山本忠平さん(81)は5回目の北方領土訪問でしたが、「どうしようもない。私の世代では力不足で、若い力が必要です」と話していました。
その「若い力」である元島民の子孫の方々は、返還運動の後継者にと期待されています。でもその胸中は様々です。
16年の訪問に参加した東京都の福岡琢己さん(43)は、故人の祖父母が国後島出身。「島を追われた祖父母を思うと今も涙が出ますが、同じことをロシアの住民に強いる気にもなれない」と話しました。
福岡さんとは、択捉島で中心部から車で10分ほどの漁村を訪ねました。未舗装で軒並みは質素でしたが、漁師の一家が庭で昼食を振る舞ってくれました。札幌市の芦崎未帆さん(26)も一緒でした。
芦崎さんは86歳の祖父が歯舞群島出身でした。「それはルーツとして意識しますが、敵対心から島を返せというのは抵抗があります」。北方領土は5回目で、訪れるたび人や自然を好きになると話しました。択捉島ではフェイスブックで知り合った択捉島のロシア人女性(18)に会えました。
政府間で北方領土問題がこじれる中で、被害者である元島民やその子孫の方々が返還運動に携わりつつ、北方領土で暮らすロシア人住民と交流しているのです。こうした皆さんが「ビザなし交流」を支えて参加を重ねるうちに、国家同士の対立と、国を超えた人間同士の交流のはざまで、様々な思いを抱くことは当然だと思います。
それでも私は元島民と子孫の方々の話から、世代を超えて通じるものを感じました。それは、元島民の方々が戦争で強制的に島を追われたような悲劇が、再び今のロシア住民に起きることは望まないという気持ちでした。
元島民の山本さんは1947年、12歳になるまでソ連軍が占領した択捉島で過ごし、ソ連への国籍変更を拒んだ母とともに、樺太の収容所を経て函館へ貨物船で「送還」されました。
それでも、「島を取り返す」という言い方ではなく、「自由に往来できる島々に戻ってほしい」とおっしゃっていました。
こうした心構えは、四半世紀にわたる「ビザなし交流」を通じて元島民と子孫の方々が育んだ尊い財産です。「ビザなし交流」に参加する国会議員にすれば、北方領土問題の当事者といえるこうした国民の声に耳を傾けることは、国民の代表である自分が解決のために何ができるかを考える上で欠かせないはずです。
長々と書きましたが、その上でもう一度、冒頭に示した丸山議員と元島民の大塚さんのやり取りを読んでいただきたいのです。丸山議員の態度と言葉がいかに罪深いか、おわかりになると思います。
丸山議員が特殊だとか、発言を撤回したとかいうことで済まされる話ではありません。今まさに、北方領土問題の解決を安倍晋三首相が急いでいる中での出来事なのです。
安倍首相が決断する時、それが本当に国民の思いに応えるものになるのかを取材し報じていくにあたって、今回の出来事に怒り、悲しんだ元島民と子孫の方々のことを、胸に刻みます。
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