連載
#13 「ボヘミアン・ラプソディ」の世界
若きフレディが語った「映画を予感させる言葉」クイーン現象の今後
映画「ボヘミアン・ラプソディ」が巻き起こしたクイーンブームとは何だったのか。音楽雑誌「ミュージック・ライフ」元編集長の東郷かおる子さんは、1970年代からクイーンを追い続けています。母国で酷評された過去。日本でも男性ロックファンからは「邪道」と見られていました。そんな中、フレディは、映画の結末を予感させるような言葉を口にしていました。この1年のクイーン現象、その先にあるものについて聞きました。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、日本での興行収入が1993年の「ジュラシック・パーク」を超え128億円を突破しました。世界興行収入が約994億円なので8分の1近くを日本で売り上げたことになります。
クイーンが初来日したのは、1975年4月17日。今ではこの日が「クイーンの日」とされています。その日を前に、13日午後、日本に初めて降り立った羽田空港の国際線ターミナルのホールで、有料イベント「The Queen Day Vol.5」が開かれました。今年で5回目になりますが、ここでも異変が起きていました。
主催者の一つ、「MUSIC LIFE CLUB」(ミュージック・ライフ・クラブ)を運営するシンコーミュージック・エンタテイメントの楽曲プロモーション・チームの阿部裕行さんは、「今回はチケット発売から4~5時間で売り切れてしまったそうです。毎年『クイーンの日』を楽しみにしていた人たちの中でも、ゆっくりチケットを買おうと思っていた人はsold outで来られなかった人がいたようです」と言います。
284席ある会場で、ステージ上から参加者にたずねると、半数以上が初めての参加でした。
映画のプレミアム上映、イベントの予約は、映画公開後、ネット予約では数分から数時間で完売する状況が続いています。
クイーンファンの一人は、昼間に予約開始があるイベントの場合、「会社のトイレで予約を入れています」というほど、厳しい状況になりました。
日本人でクイーンを間近で見てきた一人、東郷さんはこの1年をどう見ているのでしょうか。まず、クイーンや楽曲が時代や世代を超えて、なぜこれほどまでにリスペクトされているのかを聞いてみました。
「私は映画を見て、ファンが満足する出来上がりになっているし、クイーンをまったく知らない人が見てもすごく満足できる映画だと思いました。だいたい、どっちかになっちゃうじゃないですか。フレディがゲイであったことを考えると、ものすごくスキャンダラスに描くか、エグく描くか、あるいは何でもない優等生として描くか。このどれかではなく、バランスが非常に良くできていましたよね。それでクイーンファンはものすごく安心しました。映画はクイーンファンの信頼を得たと思うのです」
映画のヒットと同時に、過去の曲がストリーミングでチャート上位に入るなど、若い世代にも刺さった様子を見て取れます。
「クイーンを知らない世代は、クイーンファンの子どもとか甥や姪といった世代ですよね。今ってすごく洋楽が弱いじゃないですか。クイーンが一番輝いていた時代は80年代で、洋楽が一番輝いていた時代。その時代に出てきたバンドは本当に素晴らしいバンドが多いと思うんです。マドンナやマイケル・ジャクソンはエンタテイメント。クイーンにもそういうところはありますけど、そういう素晴らしいバンドに触れる機会が今の若い人にないと思います」
「ライブ・エイドのような会場で世界を相手にライブができるようなバンドは、今ないですね。映画を見て『本当だったんだ』『すげえな』『びっくりしちゃった』というのから初めの感想だったと思います。実際に大画面で大音響で見ていると圧倒されます。それですっかり病みつきになったという人が多いんじゃないですか」
クイーンは、「日本で人気に火が付いた」と言われ、彼ら自身、親日家であります。ただ、日本人の心に響く理由は、それだけでしょうか。
「日本人の感性に響くんですよね。ブルースやR&Bのにおいがするアメリカン・ロックじゃないんですよね。それっぽい曲をやっても、そのにおいがしない。そこは日本人が弱いところ。クイーンの曲は日本人のコンプレックスを感じさせない曲ですよね。ものすごくゴージャスで、起承転結があって、大げさで、フレディはロックミュージシャンというよりもエンターティナーですから、そういうところもフィットしたんだと思います」
映画「ボヘミアン・ラプソディ」やCMなどで流れる楽曲を通じて新たなファンになった若い世代には、どう響いているのでしょうか。
「若い人たちがクイーンにひかれるのは、私たちが70年代に経験した、スターになっていく過程と同じ経験を、映画などを通じて体験しているのかもしれません」
東郷さんが取材する中で引き出した、フレディの印象的な言葉があります。
「最初の来日の時、日本は女性ファンが非常に多いけど気にならないのか、と聞いてみたんですね。本人たちは『全然そんなことはない』と。私も若かったし、ファンが聞きたいことを聞かなくてはいけないと思ったので、その後のイギリスでのレコーディング現場でのインタビューでも、初恋についても聞きました。真面目なロックファンからは怒られましたけど」
そんな質問から引き出されたフレディの名言がありました。
「フレディはその時、『僕たちは音楽と結婚したんだよ』っていう言い方をしたんです。迷言か名言か分かりませんが、それはフレディにとって真実だったんでしょうね。その後のことを考えていくと。『普通は、あんなこと聞けない』とも言われましたが、私は後悔はしていません。聞かなければフレディはそんなことを話さなかった」
その言葉は、映画でも描かれているように、その後のフレディの人生を暗示する言葉でした。
70年代、80年代の男性ロックファンの中には「クイーンはロックの王道ではない」と今も口にする人がいます。
「男性は、本当はクイーンが好きなのに好きだと言えない雰囲気がありましたよね。見えっ張りというか、横並び主義だから。俺だけクイーンが好きだと言ったら仲間はずれになるとか、学校で女の子が下敷きにクイーンの切り抜きを入れているから好きだと言えないとか。70年代はあったと思います」
「でも80年代になって、アメリカでもロックスターになって、スタジアムロックになってからは、そんなこと誰も言わなかった。クイーンに限らず現象を起こすのは、女の子と子どもですよ。継続させるのは男性かもしれない。別に仲良くすればいいじゃない、と思いますけどね」
映画「ボヘミアン・ラプソディ」の見どころの一つが、メアリーとフレディの関係です。
「メアリーとフレディの関係は、男と女の関係を超えて、あんな風になっちゃったら、もうソウルメイトですよね。そんな人間関係が構築されることなんて、なかなかないじゃないですか。それが男女だったのが非常に面白いですね。フレディが亡くなった後、フレディの財産の一部はメアリーに行っているし、フレディの家に今も住んでいるわけですから。他のメンバーからすればあまり面白くないという話はありましたけど。でも、それだけフレディにとっては大切な人だったんでしょうね」
ライブ映像のオフショットにも、メアリーが写っているものがあります。
「来日公演でインタビューしようとしても、東京でできなくて、大阪でできなくて、最後の福岡まで行ったんですよね。夜中に今からならフレディのインタビューできるからと連絡があったので、ミュージック・ライフ専属カメラマンの長谷部宏さんと駆け付けました。ホテルの部屋に行ったら、その当時のフレディのボーイフレンドとメアリーが一緒に居ましたから。レレレと思いましたね。『どういうこと?』と。でも、そういうこともあるのかなと当時は勉強になりましたよ。かいがいしくお茶を入れてくれたりしたのはメアリーではなく、ボーイフレンドでした。メアリーは遠くから黙って見ているだけでした」
「今だったら理解できなくもないですけど、当時は何と説明したらいいのか……」
1月にアメリカでゴールデングローブ賞の作品賞を受賞した映画「ボヘミアン・ラプソディ」ですが、その直後、インスタグラムで、ブライアン・メイやロジャー・テイラーは、映画に辛口だった批評家に対して、辛辣なコメントを書き込んでいました。映画のシーンでも、イギリスのメディアの厳しい質問責めがありましたが、実際、イギリスのメディアには良い評価がなかなか得られなかったと言われています。
「分かりますね。デビュー当時のクイーンは何であそこまで叩かれるのと思うぐらいひどかったですからね。グラムロックの末期に出てきたわけですけど、向こうの評論家は『あんなものはグラムロックの残りかす』とか言っていましたから。とにかく辛辣で、彼らも若かったし、傷ついたんじゃないですかね。その後のアルバムも褒められたものもあったけど、相変わらず踏み続けられたわけですよ。そういうことに対しては、ざまあみろと思ったんじゃないですか。だから、メンバーの反論について私はそれを責められませんね、いじめられましたから」
「一種のリベンジを果たしたということじゃないですかね。忘れられないですよね」
関連本の出版は、「MUSIC LIFE CLUB」を運営するシンコーミュージック・エンタテイエントが映画公開後に発売したものだけで、11冊(月刊誌は含まず)になります。
完全版の『クイーン詩集』は、英語と邦訳を載せたもの。重版となり、15000部発行しました。東郷さんの『クイーンと過ごした輝ける日々』も初版10000部が刷られました。
シンコーミュージック・エンタテイエントが関係するクイーン関連のトークイベントやトリビュート・バンドのライブなどは、ゴールデンウィークまでに11企画に上ります。地下資料室には、ミュージック・ライフなどが撮りためてきた写真の資料が大量に保管されているそうです。阿部さんはこう打ち明けます。
「推測するに、3万枚ぐらいじゃないかと。紛失してしまったものもあるようです。長谷部さんの写真集を出す際も、編集者が写真をセレクトしたところ、本人から『違うカットがある』と言われましたが、見つからないものもありました」
ここにもない写真があります。クイーンが初来日したときに行われた初回の武道館ライブの写真です。ステージと客席の間でカメラを構えていた長谷部宏さんは、こう振り返ります。
「1曲目がかかった瞬間、ステージ前にファンが押しかけて、私の前に女の子が仰向けで倒れました。その上に四つんばいになって守りました。スモークが流れてきて、私の背中の上にも3、4人乗ってきました。フレディがそれに気付いて、1曲目を途中で止めてくれたので助かりました。カメラもメガネも飛んでいってしまって、どうしようも有りませんでした」
シンコーミュージック・エンタテイエントでは現在、アーカイブ化を進めており、サイトやオンラインによる写真のライセンスビジネスの世界的企業「gettyimages」を通じて外販もされています。阿部さんはたちはこう考えています。
「莫大な枚数の写真があるので、それを何も利用せずに資料室に保管しておくだけでなく、それを使って音楽ファンに語り継がないといけないという使命があると思います」
SNSが発達し、情報が世界を駆け巡り、ストリーミングで動画をどこでもいつでも見られる時代になりました。阿部さんは、「テイラー・スイフトやエド・シーランといった海外アーティストたちがドーム公演や武道館公演を成功させているように、若い子たちが洋楽を聴かなくなったわけではないと思います」と指摘します。
「洋楽と邦楽の境目がなくなったということでしょう。外国人へのコンプレックスもなくなり、音楽という一つの塊になりました。一方、『音楽はタダになってしまった』という業界関係者もいますが、ネガティブなことを言っていてもしょうがないと思います。アマゾン、YouTube……。ビジネスモデルが変わったんですね。アーティストは大変ですが、だからこそ今、ライブに力を入れるようになっています」
海外ではそのライブの姿も変わりつつあるという。
いわゆる「おまけ」付のVIPチケットです。
「海外バンドでは、ギターレッスンが受けられたり、リハーサルが見られたり、楽屋であいさつできたりするチケットが売り出されています」
「私はライブ・エイドの会場にいました。ライブ・エイドを知らない人たちは、本当にあんなことがあったのかと懐疑的に思う人がいますけど、当時は音楽にもっと力があったし、それに耐えうるスターがいました」
それは、音楽の力が社会の前面に出ていた時代だったのかもしれません。
4月17日の「クイーンの日」に、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の日本版ブルーレイが発売になりました。
洋楽ブームだった1976年春、ラジオ番組で「ボヘミアン・ラプソディ」に出会った東京都に住む公務員の吉田仁志さん(57)は、何枚かの写真を見せてくれました。
フレディが亡くなった翌年の追悼コンサートに行こうとしたものの仕事の関係で直前にキャンセル。1993年1月にロンドンに行ったときのものです。
「当時お墓があるという情報があったので、休暇を使ってロンドンに行きました。あると言われた墓地で確認しましたが、その情報はがせでした」
メモリアルな場所はないかと考え、フレディの自宅前を訪れたとき、メアリーが出てきたそうです。
今考えると、「彼女がどこかで支えていたから、フレディが最期までミュージシャンでいられたんだろうなと思います」と振り返ります。
レンガ塀のドアなどには、世界中から来たファンが書き込んだメッセージがたくさん残されていました。
吉田さんの自宅には、段ボール箱2つに、思い出のグッズや新聞、雑誌の記事が詰め込まれています。映画を30回見ても、ブルーレイ日本版を買い、関連本、関連グッズとともに大事に保管されていきます。
若い世代を巻き込んだ、この1年のクイーンブーム。吉田さんのようなコアなファンの愛情と、新しいファンの新鮮な驚き、両方を受け止めるクイーンの世界観の広さが、世代を超えて人々を惹きつけるのかもしれません。
皆さんは、音楽の力について、どう考えますか。ライブ・エイドがあった1985年当時のような力は失ってしまったのでしょうか。みなさんの経験、意見を投稿してください。
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