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お金と仕事

ボブスレー五輪代表選手のその後……マイナースポーツの価値って?

トリノ五輪にて、外国人選手たちと=長岡さん提供
トリノ五輪にて、外国人選手たちと=長岡さん提供

目次

長岡千里さんは、2006年にトリノ冬季五輪で女子ボブスレー代表として出場した後、引退して電機メーカーの営業職に飛び込みました。マイナースポーツ経験者だからこそ、働く上でプラスになったことがあると言います。ボブスレーを始めた時、そして引退後に営業として働き始めた時、どちらにも成長する過程での共通点があったと言います。(ライター・小野ヒデコ)

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マイナースポーツだからこそ身についたスキル

<世界では新参者だった日本女子ボブスレー代表。長岡さんは積極的に外国人選手の輪に入っていきました。その時の経験が後の営業職で役に立ったと振り返ります>

日本女子ボブスレー代表として、2006年2月のトリノ冬季五輪に出場しました。五輪出場が第一の目標だったので、スタートラインに立ったとき、感極まって涙が溢れました。

これまで支えてくれた方や環境に感謝しかなかったですね。結果、入賞15位。正直、パフォーマンスは納得がいくものではありませんでしたが、達成感はありました。

振り返ると、マイナースポーツだからこそ鍛えられたことがあると感じています。最初、女子ボブスレーが強い欧米のチームからは、日本は新参者扱いされ相手にされませんでした。

それでもめげずにひたむきに取り組み、つたない英語で何とかコミュニケーションを取るよう努めました。そうすると、徐々に「手伝おうか?」と海外の選手から声をかけてもらう機会が増えていったんです。

試合後はチームメイトと積極的に外国人選手が集まる所に出向き、交流することも心掛けました。この時の経験は、引退後に就職した際、紅一点の営業として逆境の中仕事を覚えていった時に役立ったと感じています。

2006年トリノ五輪でレースに臨む長岡さん(左)=長岡さん提供
2006年トリノ五輪でレースに臨む長岡さん(左)=長岡さん提供

営業力を人脈と資金作りに生かす

<五輪出場後に選んだ道は、現役を続けながらの後輩育成でした。持ち前の営業力を生かした人脈作りの日々が始まります>

トリノ五輪出場のときは29歳でした。正直、ボブスレーのブレーカー(2人乗りの場合、後ろに乗るポジション)は誰でもなれると思っています。日本中探せば、私より強い選手はたくさんいると思います。

五輪後、私は現役を続けつつ、次世代の選手の発掘と育成に力を入れることにしました。日本女子ボブスレーの最初の目標は「五輪に出ること」でした。それが達成された今、今度はそれが最低限の目標に変わります。

五輪に出てだけで引退してしまったら、何も残せていないのと同じだと思い、陸上の全国大会に足を運んだり、大学の伝手を頼って募集をかけたりして、スカウトに力を入れていきました。

私より身体能力が高い選手は全国に山ほどいます。「やってみない?」と積極的に声をかけていかないと、ボブスレーを知ってもらえない。

でも、ボブスレーはマイナースポーツでスポンサーがいないため、年間100万円ほどの費用がかかります。興味をもってもらっても費用がかかることがネックになります。そこで、持ち前の営業力を生かして人脈作りや資金作りに取り掛かりました。

レース中、後ろに座る「ブレーカー」は、前方の「パイロット」の操縦に身を任せる=長岡さん提供
レース中、後ろに座る「ブレーカー」は、前方の「パイロット」の操縦に身を任せる=長岡さん提供

トリノ五輪後、選手と続けながらスポンサー探し

<五輪出場という経験を生かしながらのスポンサー探しで貢献した長岡さん。一方で、引退後の進路は明確に決めていませんでした。それは選手として「怖さ」でもありました>

五輪出場をしていたので、スポンサー探しをしていても、とりあえず話は聞いてもらえました。応援や協力を得られて、支援してもらえることも徐々に増えていきました。

そのかいもあり、次のバンクーバー五輪では選手も増えました。そういった面では、ボブスレー界に少しは貢献できたかなと思っています。若手が育ってきたので、結果的にバンクーバーの選考会には出場せず、33歳で引退しました。

引退後の人生を考えていなかったため、在籍していた金融企業でそのまましばらく働きました。振り返ってみると、ぼんやりとでもいいからその先にことを考えておけばよかったと思います。

現役時代に競技が終わったときのことを考えるのは怖いことなんですよ。五輪目指すって言っているときに、そういうことを言うと、真剣に五輪目指してないと思われることもあります。

相談できるところや、そういうことを考える機会もありませんでした。でも、競技に集中するのは大事な一方、社会人になると自分で生活していかないといけない。

今勤めている廣瀬無線電機に入社するきっかけになったのは、たまたま入った居酒屋で今の常務と出会ったことです。「営業がしたい、営業でトップをとりたい」と話したところ、「うちの来ないか」と名刺をもらいました。

入社のきっかけは居酒屋での出会いだった
入社のきっかけは居酒屋での出会いだった

わからなかったら聞きまくる

<初めての女性営業職として飛び込んだ会社。長岡さんがセカンドキャリアを築く上で大事にしたのは選手時代のプライドを捨てることでした>

当時、年齢は38歳で、電化製品や商流の知識、営業方法はゼロでした。後日、電話をして「働かせてください」と伝え入社することに。ふたを開けると、女性の営業職もこれまで事例がないという環境でした。

最初は、皆さん私の扱いに困ったと思います。中途採用なのに即戦力になれず、でも熱意だけはあるので「教えてください」とアピールし、コミュニケーションを取り続けました。

男性が多いので、目線を合わせて会話するため高いヒールの靴を履いていますし、仕事後は積極的にコミュニケーションを取ることにしています。

今年で営業は5年目になります。働くうえで、男女問わず人の懐に入れるような「謙虚な気持ち」がないとダメだと思うんです。

スポーツ選手でありがちなのは、実力がある分プライドが高いこと。でも、それはスポーツの世界だけのこと。セカンドキャリアを考えたとき、雇ってくれるのは会社です。

会社に所属する以上は、会社に利益をもたらさないといけないので、その会社にあった仕事をする。自分で考えていくことをしていかないと。

「元アスリートは即戦力にはならないかもしれないけど、メンタルは強いため、ポテンシャルは高いと思う」と長岡さん
「元アスリートは即戦力にはならないかもしれないけど、メンタルは強いため、ポテンシャルは高いと思う」と長岡さん

今後はチームマネジメントをしていきたい

<長岡さんは今後もボブスレーには関わっていきたいと考えています。同時に会社において、元アスリートだからこそ生かせるスキルがあると言います>

セカンドキャリアの時点で、年齢、経験値のハンデがある。それを埋めるのは、いかに受け入れてもらうか考えることです。私はよく「わからないんで教えてください」と誰彼構わず聞きます。そう言ったら、教えてくれない人はいません。

営業は奥が深く、もっと知らないといけないことがあります。今後の目標は今以上にスキルをつけて、チームのマネジメントしていくこと。営業の仕方や新しい提案、営業は楽しいということを、経験を踏まえて下の世代にも教えていきたい。

廣瀬無線電機は創業90年を超える歴史ある会社です。そのため、私自身が仕事をする上での男女の枠を超えた働きやすい環境作りと営業方法を伝えるだけの力量を培っていきたい。できれば、元アスリートには強みであるメンタル力を生かして営業や企画の分野で活躍してほしい。人事の方には大卒の新人との違いをもっとわかってほしいです。

今後のボブスレーのかかわり方は、体験会などを通してもっと広くボブスレーのことを知ってもらいたいです。まだまだマイナースポーツなので、競技人口を増やすことが解決策の一つになるはず。これからもボブスレー界に貢献していきたいです。

     ◇

長岡千里(ながおか・ちさと)1976年、兵庫県生まれ。天理大学卒業後、00年に金融企業に就職。2006年に冬季五輪トリノ大会に女子ボブスレー日本代表として出場。2014年に廣瀬無線電機に就職。

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