連載
#14 #まぜこぜ世界へのカケハシ
障害者の兄、隠し続けた葛藤 一緒に歩いた披露宴で出した答え
神奈川県の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年、重い障害のある19人の命が奪われた事件。2年になるのを機に、私たちは障害のある兄弟や姉妹をもつ「きょうだい(きょうだい児)」の目を通して、事件を考えました。その後「きょうだい児への支援について深掘りしてほしい」という要望をいただき、もう一度、当事者の声をもとに取材しました。(朝日新聞文化くらし報道部・山内深紗子)
「障害は忌むべきものではなく、ちょっと不自由な生活を強いられるけど、ただそれだけなんだよ」
滋賀県の特別支援学校教諭、久保田優里(ゆり)さん(28)は両親からこう言われて育ちました。
兄の植松暖人(あつひと)さん(31)は脳性まひで、重い知的・身体障害があります。優里さんは、兄を特別視せず、隠すようなこともなかった家庭で育ちました。
弟の洸志(こうじ)さん(26)と両親と兄と一緒にデパートに出かけ、自家用車でキャンプやスキーにも行きました。幼い頃は、兄の「障害」を意識したことがなかったそうです。
そんな優里さんが、兄の障害を強く認識したのは9歳の時でした。
休日の午後、兄と留守番をすることに。ふたりになってしばらくのことでした。
「ほんまは話せるけど、実は隠してるだけなんやろ?」。優里さんはそう兄に耳打ちし、部屋を出て様子をうかがいました。
「うーっ」。声は聞こえましたが、30分間待っても兄は言葉を話しませんでした。よだれが兄の首をつたっていました。
同級生が学校で、不器用な友人を「お前、障害児か。何にもできん」とからかっていたことが頭に浮かび、胸をつかれました。
中学生になると、友人に兄の存在を隠すようになりました。好きになった人にも言えませんでした。なぜだったのでしょうか。
友達に何度か、兄の障害のことを話したことはあったのですが、相手が引いて会話が続かなくなり、悲しい思いをした経験がありました。話した後で、友達に避けられるのではないか、という気持ちもありました。
そして何より、障害を持つ人が周りにいない人たちに、重複障害がある兄の本当の姿を伝える方法がわからなかったと言います。
「勇気のない自分。うしろめたい気持ちがずっとありました」
ですが、家の中では兄との「豊かな会話」があります。
兄の機嫌が悪くなり、大声で騒ぐと、優里さんは「テレビが気になるのかな?」と察してチャンネルをかえます。
兄が笑顔に戻ると、「当たり」。言葉を介するより、時間もエネルギーも費やして兄の表現の奥の部分を探ります。
「うそは絶対にないし、心が通じてくる」
優里さんは、小学校教諭として働き始め、3年前に特別支援学校に移りました。障害のある家族がいることは「普通」じゃないと思い続けていて、そのことは、どんなに家族の仲が良くても兄の存在を否定しているようで、口に出すことすらためらわれたといいます。周囲に兄のことは言えませんでした。
でも、学校の子どもたちや家族と接する中で、「特別なことではない」と思うようになったそうです。
一昨年秋、優里さんは、同僚の一矢さん(34)と結婚しました。お色直しで退場する際には、きょうだい3人で歩こうと決めていました。「任せて」と、弟の洸志さんも快諾してくれました。
約100人が集まった披露宴。兄の車いすをふたりで押し、参列者にあいさつしながら歩きました。兄の障害を初めて知った人が多かったそうです。
両親は涙ぐんでいました。かけよって、兄のよだれをぬぐってくれる同僚もいました。親類も友人も「感動したよ。よかったね」と言ってくれました。
人が大勢いる場所では必ずといっていいほど騒ぐ兄が、この日はずっとにこにこしていました。
「兄は特別な日だと分かっていたんだと思います。私は自分の軸が強くなったのかな。私、幸せ者ですね」
朝日新聞では、重い障害のある19人の命が奪われたやまゆり園事件2年を機に昨夏、優里さんらきょうだい児の思いを伝える連載を朝刊に掲載しました。
掲載後、優里さんは、小学校の同級生からメールをもらいました。
優里さんは、幼い頃から、兄のリハビリや特別支援学校の遠足などに両親と一緒に参加していました。その時に、きょうだい児同士で仲良くなる機会もありました。
でも、主役は障害のある兄たち。そこで友達をつくり悩みを共有することはなかったのです。
母の久仁子さん(60)のもとには、同じく障害児を育てる親から、数多くの反響が寄せられました。そのひとつは以下のような内容でした。
「ふたつ上の娘も、彼女なりの悩みがあることは想像できますが、本人は語らずで、どれだけ理解してやれているのか?わかりません。悪い親です」
久仁子さん自身も、優里さんの心の奥底の葛藤には気づいていませんでした。
なぜなら、優里さんは、兄との外出も、特別支援学校の行事も一緒に楽しそうにしていたからです。
今振り返ると、楽しそうにしていたのは、「家族」という理解者がそばにいる時のこと。一人で、障害に対する社会の冷たい風にさらされる時に、毅然と向き合うことが困難な時もあるのだと気づいたそうです。
同じきょうだいでもそれぞれ性格は異なります。弟の洸志さんは、「気にしなかったし、差別を感じると友達にでも誰にでも、それはおかしいよと伝えていました」と言います。
久仁子さんは障害の種別に関わらず家族が支え合う「大津市障害児者と支える人の会」の合併設立に10年前に協力。きょうだい児も含めて、相談に乗ったり、勉強会や遠足などの余暇活動を企画したりしてきました。
障害のある子だけでなく、きょうだい児と1対1の時間をつくることが大事だと言います。「あなたも必要な子で愛している。我慢しすぎないで」と自然な形で伝えることができるといいます。
その時間を確保できたのは、久仁子さんの場合、同居の母や夫の潤治さん(61)もケアに関わったほか、障害児がいるという理由で働いていなくても、保育園に預けられる市の制度があったからだといいます。
久仁子さんは「福祉サービスが整備され、特にケアの担い手になることの多い母親が罪悪感を感じることなく、外に開いていける環境づくりが大事です」と話します。
潤治さんは、小児科医。「全国肢体不自由児者父母の会連合会」の副会長も務めています。
多くの親子と接する中で必要だと感じることは、「家族の中で抱えて、閉じこもらなくてもいいような制度整備や周囲の理解」だと言います。
障害がある子どもがいる家族は片時も離れられず、ほっとできる時間がとても少ない。そして、自分たちが先に逝った時の、子どもの身ときょうだいの負担を案じ続けています。
「親たちにスーパーマンになれ、というのは酷。だからこそ、障害者支援だけでなく、家族、きょうだいのケアを、社会で支援していくことが重要です」
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