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#6 平成B面史

平成に舞い降りた「スイーツ」その歴史 自由が丘が選ばれた理由

平成とともに出現した「スイーツ」。その名前に込められた思いとは……=イラスト・髙田ゆき
平成とともに出現した「スイーツ」。その名前に込められた思いとは……=イラスト・髙田ゆき

目次

 「スイーツ」って、いつから、どんな経緯で呼ばれるようになったんでしょうか? 実は「スイーツ」が「ワクワクする特別なお菓子」を指す言葉として広まったのは平成です。様々な呼び方がある中、「日本独自の文化」を表す言葉として広まっていきました。平成生まれ「ゆとり世代」な記者の私は、社会人になってからも時折、ごほうびと称してスイーツを買い、自分を甘やかしてきました。平成最後の年、「先駆者」の話を聞きに「スイーツ」の都、自由が丘に乗り込みました。(朝日新聞記者・江向彩也夏=1991年・平成3年生まれ)

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辻󠄀口シェフが明かした生い立ち

 2018年11月27日、東京・自由が丘であるトークショーがありました。13ものスイーツブランドを展開する辻󠄀口博啓シェフが最初に構えた店「モンサンクレール」の20周年記念イベントです。第一線で活躍するパティシエのお話を聞きに、たくさんの人が集まりました。

 辻󠄀口シェフは、石川県七尾市の和菓子屋3代目でしたが、小学生の時、友人の家で食べたケーキに感動。高校卒業後、東京・田園調布の洋菓子店で住み込みで働き始めました。ところが、友人の借金の保証人になった父が行方不明に。和菓子屋は倒産し、実家も手放すことになりました。

 辻󠄀口「ある時、親戚から『あんたんとこのお父さんって本当に“おぞい”ね』って言われたんです。おぞいって、どうしようもない、いい加減という意味で。その言葉で結構、傷ついて」

 辻󠄀口「父親から授かった命じゃないですか。おやじがやってきたことをびしっと肯定し、世の中に対して、きちんと立つ。その様を見せたくて、お店を持ちたいと考えました」

修業を積んでいた頃の辻󠄀口博啓シェフ(中央)。パティシエのコンクールで何度も優勝していました=アーシュ・ツジグチ提供
修業を積んでいた頃の辻󠄀口博啓シェフ(中央)。パティシエのコンクールで何度も優勝していました=アーシュ・ツジグチ提供

「スイーツ」と呼ぶ日本独自の文化

 毎日、店が閉まってから、同僚が部屋でテレビを見ていても、辻󠄀口さんは「心が安定するから」と、厨房(ちゅうぼう)でマジパンの作り方やチョコレートの仕込み方などを練習。

 いくつものコンクールで優勝し、洋菓子の本場・フランスでも修業を積みました。1998年に洋菓子店が競合する街・自由が丘に「モンサンクレール」を開業。店名は、南仏に実在する丘にちなみ名付けました。

 開業当時、「パティシエ」は広まり始めていたものの、「スイーツ」はまだそんなに広まっていませんでした。当時は、一部のファッション誌で、「スイーツ」という表記が載りだしたばかりでした。

 パティシエはフランス語。洋菓子の本場の重みがあるように感じます。一方、スイーツは英語。一見すると、単に菓子全体を総称する「Sweets(スウィーツ)」と思える部分もあります。しかし、実は、こんな志も込められていました。

 辻󠄀口「スイーツというものを、日本の文化にしたい」

トークショーに登壇した辻󠄀口博啓シェフ
トークショーに登壇した辻󠄀口博啓シェフ

 辻󠄀口シェフ自身、フランスで修業し、日本でお店を開きました。辻󠄀口シェフと同様に、海外で学んだ日本のパティシエも、たくさんいます。皆さんはただ学び、技術を持ち帰ったのではありません。

 フランスの影響を受けながら、和の素材や伝統を取り入れ、新たな日本独自の「スイーツ」という文化を確立していったのです。

 実際、辻󠄀口シェフは、日本の素材に着目。かつての実家の和菓子屋にちなんだ「和楽紅屋(わらくべにや)」を2004年に立ち上げ、抹茶や和三盆、きなこなど、日本の素材と洋菓子を組み合わせたスイーツを販売しました。

 このように、パティシエの皆さんの試行錯誤で、日本独自の「スイーツ」は世の中に浸透していきました。

東京・自由が丘「モンサンクレール」の「セラヴィ」。店では人気ナンバーワンの商品です=アーシュ・ツジグチ提供
東京・自由が丘「モンサンクレール」の「セラヴィ」。店では人気ナンバーワンの商品です=アーシュ・ツジグチ提供

なぜ自由が丘が「スイーツ」の都に!?

 さて、この「スイーツ」という言葉、辻󠄀口シェフによると、15年ほど前、2003年ごろから広まり始めたと言います。

 同じ時期、「モンサンクレール」がある東京・自由が丘では、別の動きもありました。テーマパーク「自由が丘スイーツフォレスト」ができたのです。(記者が小中学生の頃、「夢の国みたい」と思っていた場所でした)

自由が丘スイーツフォレストは、女性向けを意識して外観をピンク色にしています=自由が丘スイーツフォレスト提供
自由が丘スイーツフォレストは、女性向けを意識して外観をピンク色にしています=自由が丘スイーツフォレスト提供
自由が丘スイーツフォレストのアイススイーツ「ラブリーチーズケーキ」。2018年から「インスタ映え」を狙い、ハート形にしたそうです=自由が丘スイーツフォレスト提供
自由が丘スイーツフォレストのアイススイーツ「ラブリーチーズケーキ」。2018年から「インスタ映え」を狙い、ハート形にしたそうです=自由が丘スイーツフォレスト提供

 敷地内には、ケーキやアイス、杏仁を使ったアジアンスイーツやクレープなど、スイーツを味わえる店が8店並んでいます。なぜ、できたのでしょうか。その問いに、プロデューサーの齋藤未来(みき)さんが答えてくれました。

 齋藤「自由が丘は、美容院や雑貨店が多い東京有数の『女町』。さらに当時、みなとみらい線が開業し、自由が丘を走る東急東横線とつながって、商業圏が広がると見込まれました。そのなかで、『自由が丘=スイーツ』と思ってもらおう、街を活気づけようと、このテーマパークが作られました」

開業時の「自由が丘スイーツフォレスト」=2003年11月19日
開業時の「自由が丘スイーツフォレスト」=2003年11月19日

空腹じゃない、気持ちを満たすもの

 テーマパークは、雑誌の特集などの影響を受け、2001年ごろから構想が練られました。鍵となったのは名前。当時「スィーツ」「スウィーツ」「デザート」など、メディアでも表記はバラバラ。それでも、「スイーツ」という表現が採用されました。

 齋藤「デザートは本来、食事の後に食べるもの。言葉に軽いイメージがありました。でも、スイーツは、空腹を満たすため食べるのではなく、気持ちを満たすため食べるもの。修業を積んだパティシエさんしか作れない、思いのこもった極上のもの。言葉に重いイメージがあると感じました」

 また、スイーツを好きな分だけ食べられる「スイーツパラダイス」も、同年に大阪・心斎橋に1号店をオープン。全国展開し、スイーツはさらに広まっていきました。

スイーツパラダイス名古屋スパイラルタワーズ店。休日には学生でにぎわいます=名古屋市中村区名駅4丁目、江向彩也夏撮影
スイーツパラダイス名古屋スパイラルタワーズ店。休日には学生でにぎわいます=名古屋市中村区名駅4丁目、江向彩也夏撮影

 スイーツが浸透していくなか、パティシエを志す若者をめぐる環境も変化していきました。2011年、日本スイーツ協会ができ、辻󠄀口シェフは代表理事に就任。「スイーツコンシェルジュ検定」も始まりました。

 辻󠄀口「どうやったら楽しく生きられるかが大前提となって、それがある意味、パティシエの世界をぶち壊すことにもつながっています。日本のスイーツを世に広めることで、パティシエだけじゃなく(材料の)生産者にも影響が及んでいくんじゃないか、地域おこしにもつながるんじゃないかと思っています」

自由が丘スイーツフォレストの「ストロベリーモンブラン」。オープン当初からの人気商品です=自由が丘スイーツフォレスト提供
自由が丘スイーツフォレストの「ストロベリーモンブラン」。オープン当初からの人気商品です=自由が丘スイーツフォレスト提供

世界に向けた大志

 今後、日本のスイーツは、どうなっていくのでしょうか。

 辻󠄀口「日本のスイーツを輝かせることによって、旅行だったり、インバウンドだったり、日本の『コト消費』が生まれると考えます」

 辻󠄀口「次の時代の新しい日本のパティシエたちにもスイーツを語ってもらって、スイーツの素材や考え方を日本から発信することによって、外国から『日本に行ってスイーツを学びたい』と思ってもらえるようになるといい。日本のスイーツの文化がさらに進化するよう、大きなうねりを生み出していきたいです」

 

withnewsでは、平成が終わりを迎えるにあたって、平成を象徴しているのに普段は忘れられがちなアイテムや出来事を「平成B面史」と名付けました。みなさんの中で「そういえば……」とひらめいたものをハッシュタグ「#平成B面」をつけてツイートしてくれませんか? 編集部が保存に向けた取材にかかります。

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