連載
#56 平成家族
「いい母親やめました」不登校だった私、娘まで…親の責任って?
不登校を経験した母親は、娘の不登校にどう向き合っていったのでしょうか
自分が不登校を経験していても、子どもは「不登校にならないように」。母親がそう願っていたのは、経験したからこそわかる、自立への道の「不確かさ」からでした。でも、いまは「絶望する時間がもったいない」と話すほど、前向きな気持ちで子どもと向き合っています。そのきっかけは「いい母親」をやめたことでした。
埼玉県に住むアユミさん(37)は、困っていました。小学校1年生の長女が、学校に行こうとすると体調を崩すようになったのです。入学当初は元気に通っていた娘。でも、徐々にエネルギーがすり減っていくのを、アユミさんも感じ取っていました。
勉強が得意ではなく、「やらなきゃ先生に怒られる」という不安で泣きながらの宿題。アユミさんが励まして宿題を終わらせますが、親子ともに苦々しい思いをする日々。長女は朝起きるのもつらくなり、小1の秋頃、学校に行けなくなりました。
「なんとか学校に行ってほしい」その一心で、学校に連れて行きました。しばらくは保健室で過ごしていましたが、先生が教室で授業を受けるよう指導することもあったようです。長女の食欲は衰え、給食も食べられなくなったことを知り、アユミさんは「このままではよくない」と立ち止まりました。
周囲に「休ませたい」と伝えましたが、夫は「休み癖がつくのでは」「まだ自分で自分のことを決められる年齢ではない」と、理解を示してくれませんでした。
「自分の子育てが悪い」、そう言われているようでアユミさんは深く落ち込みました。
「不登校にならないように、と願っていたのに」
実はアユミさんも中学2年生の頃、不登校を経験していました。もともとアユミさんの2つ下の妹が、小学1年生の時から不登校をしていたこともあり、祖母に責められたり、父と口論をしたりする母親を見てきました。
「せめて私は『いい子』でいないと。周りに迷惑をかけないように、『ちゃんとしなきゃ』と思っていました」
責任感が強く、人に頼まれると断れない性格。中学校では、先輩に誘われ運動部に入りました。ところが練習は厳しく、朝練や土日の練習は当たり前で、疲れがとれない毎日に体調を崩すように。部活に行こうとすると、過呼吸やじんましんが出ることがたびたびありました。母親は「休んでいいよ」とすすめたそうですが、アユミさんは休もうとしなかったそうです。
心配した先生の声かけもあり、親と病院に行くと、ストレスによる貧血にもなっていました。医師に「2週間くらい休みなさい」と言われて、張り詰めた気持ちが緩みました。初めて「休んでいいんだ」と思えたといいます。
休んでみると、ほっとする自分がいました。部活に追われる日々で、大好きだった絵を描くことも、ほとんどできていませんでした。
一方、「休んでしまった」という、挫折感や罪悪感にもさいなまれました。医師に言われた2週間が過ぎても、学校に通うことはできませんでした。訪ねてきた担任の先生に「どうして来れないの?」と聞かれても、答えられず、ただ泣くことしかできません。「でも、いつでも待ってるよ」、それ以上言わない担任に感謝しているといいます。
家では絵や音楽に熱中しすぎて、昼夜逆転の生活が続きました。半年ほど経ち、「絵を誰かに教わりたい」と思うように。専門学校などを視野に入れると、「高校に行くしかない」と思ったそうです。目標を見定めると、「休み時間に友だちをしゃべるとか、人とコミュニケーションをとりたいかも」。学校も、少し違って見えました。
中3になって、休み始めてから足を踏み入れていなかった学校に、通ってみることにしました。「玄関の下駄箱を見て、『戻ってきた』って思いましたね。戻れたことが、うれしかった」
その後、高校にも進学し、アユミさんの生活は軌道に乗ってきました。同じ漫画や音楽が好きな人と出会い、心惹かれるものに夢中になる楽しさ。不登校を経験して、「自分で自分の人生の舵をきれるようになった」と振り返ります。
でも、自分の娘が不登校になったとき、よぎったのは不安でした。「私も不登校だったから大丈夫、と思えませんでした」
不登校を経験していたとしても、娘の気持ちをすべて理解できる訳ではありません。特に悩んでしまうのは、娘が幼いことでした。
「娘は小1。こんなに早く行けなくなるとは思っていませんでした」
重ねてしまうのは、同じく小1から不登校だったアユミさんの妹です。発達障害があることがわかっていますが、まだ概念もなかった時代。適切な支援やサポートが受けられませんでした。アユミさんの妹は、いまも実家で過ごしています。
「私はなんとか自立できたけど、娘の場合もそうなるかははわからない」。「休ませたい」と伝えたものの、娘の将来を心配して登校をうながす夫の言葉に、どんどん不安になりました。
そんなとき、アユミさんの気持ちを変える、ある出来事がありました。
長女が学校に行きづらくなって1年近く経った頃のことです。しぶる娘を学校に連れて行く途中、突然娘が逃げ出し、赤信号を飛び出したのです。幸い、車は通らなかったものの、アユミさんは血の気が引き、そして大きな後悔が生まれました。
「今もしも娘が事故に遭ってしまったら、『どうして無理にでも学校に行かせようとしたのだろう』と思ったはず。何かがあってからではなく、今私が変わらなければいけない」
それ以来、「肩の荷がおりた」というアユミさん。「世間から見たいわゆる『いい母親』になろうと思うのをやめました。子どもにとっての『いい母親』になりたいんです」
夫も少しずつ、娘のことを理解しようとしてくれるようになりました。「今思えば、自分の育った環境や価値観との違いに、ひとりで苦しんでいたのだと思います」。不登校の子を持つ父親の会にも参加して、「ちょっと楽になったみたい」とアユミさんはほほえみます。
娘と重ねていた妹に対しても、「幼少期はサポートがなかったかもしれない。でも、いまは妹なりに自分らしく生きていると思う」といいます。「親がいなくなったらどうしよう、と思うけれど、先のことを悲観して絶望する時間がもったいないんです」
アユミさんの長女は、小学5年生になりました。ダンスが得意で、見ただけですぐに振り付けを覚えてしまうそうです。苦手な勉強も、自分のペースですすめています。4つ下の長男は最近、畑仕事にハマッているそうで、「子どもって本当にひとりひとり全然違うんですよ」とアユミさん。
「『親の責任』って、学校に行かせて、ちゃんとした仕事につかせて……、ということではなく、子どもの芽をつまないことだと思うんです。ひとりひとり違う子どもの良いところを見つけて、伸ばせるように、前向きに考えていきたいと思っています」
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