連載
#55 平成家族
「モンペ」扱いだったかも…不登校の対応に不信感 転校を選んだ親子
ある日突然、子どもが「学校に行きたくない」と言い出したら? 学校の先生に相談し、何かしらの解決策を見つけようとする親は少なくないはずです。でも、その過程で学校と信頼関係が保てなくなるケースもあります。親自身の気持ち、子どもの気持ち、学校とのやりとり……。様々な「はざま」の中で、学校を変える決断に至った親子に話を聞きました。「モンスターペアレント(モンペ)扱いだったと思う」とも振り返る親が、最も大切にしたことは何だったのでしょうか?(朝日新聞記者・山下知子)
学校は行くものだ。
北九州市に住む早川みどりさん(50)はずっと、そう思っていました。だから、高校3年の長女二未(ふみ)さん(18)が、小学3年の6月に発したこんな言葉に、とまどってしまったといいます。
「先生が信用できない」
「先生が怖い」
みどりさんが「何かあったの?」と尋ねても答えません。そして、二未さんは学校に行けなくなりました。
みどりさんは、娘を引っ張ってでも学校に行かせようとしました。玄関から追い出して鍵をしめたこともあります。でも、娘はドアの向こうで立ち尽くすだけ。「体が動かない」との訴えも当時は理解できませんでした。
「何があったのか言ってくれないと、お母ちゃん、わかんないよ」。尋ね続けると、二未さんがようやく口を開きました。
「同級生が○○ちゃんをからかい、○○ちゃんが泣いた。それを見た担任の先生が『なんで泣くの?』と言った」――。
二未さんは1年の時、同級生にぞうきんを口に入れられたことがあります。その時は、当時の担任が止めてくれました。でも、「今の先生は、いじめられた時に止めてくれないかも、と不安になったみたい」。
みどりさんは考えました。担任から「ちゃんと見守っているよ」というメッセージが娘に届けば、学校に行けるのではないか。
その思いとともに、担任に手紙を書いてほしいと提案しましたが、「何を書いていいか分からない」といった返事が返ってきたと記憶しています。みどりさんは「何でもいいんです。今日は暑かったね、でもいいんです」と伝えました。
来た手紙は「みんなリコーダーを頑張っています。二未ちゃんは頑張っていますか?」。みどりさんはびっくりしました。「頑張ってって、二未にはいま、一番きつい言葉なのに……」
それでも、みどりさんは学校と一緒に解決策を考えようとしていました。校長にも今後の対応策について相談しました。すると、1冊の本を渡されました。しかし、その本は「不登校の子どもの家は散らかっている」といった、問題は家庭にあると言わんばかりの内容だったそうです。
不信感が芽生えました。
2学期、二未さんは別室登校を始めました。カーテンが閉め切られた相談室で一人でプリントを解く毎日。同級生に会うのが嫌で、授業中、人がいないのを確認してトイレに行っていました。その後ろ姿を見た夫の英之さん(50)は「もうこの学校に行かせられん」。みどりさんも同じ気持ちだったといいます。二未さんは当時を振り返ってこう言います。「相談室に通っていた頃、私は囚人のようだった」
同じ頃、学校は親に相談せずに、二未さんに教室にいる練習を提案しました。今日は1時間、明日は2時間……。二未さんは別室登校もできなくなりました。みどりさんたちは「不安の原因が除かれていないのに、なんてことをしてくれたのか」と、学校側に訴えました。
もう学校に行かなくてもいい。夫婦は吹っ切れました。
みどりさんは「ややこしい、めんどくさい親だと思われていたと思う。モンペ(モンスターペアレント)扱いだったのでは?」と振り返ります。「でもしょうがない。子どもの思いをくみ取って行動した結果だから。本当は学校と一緒に対応を考えたかったけど、信頼関係がなくなってしまったから」
みどりさんと英之さんは、学区外の子どもも通える学校を探しました。冬、二未さんの双子の弟凌平さん(18)と年子の弟修平さん(17)とともに、ダム湖のほとりにある小さな学校を訪れました。クラスは複式学級が三つ。帰りの車の中で家族会議が開かれました。助手席から身を乗り出して、みどりさんは後部座席に座る3人に言いました。「お父ちゃんとお母ちゃんは、今の学校を信用できない。あなたたちを行かせられない。あなたたちはどう思う?」
二未さんはダム湖のほとりの学校に行く気になっていました。「なんか楽しそう」。凌平さんも行く気まんまん。唯一、仲良しの友達と離れたくない修平さんだけが渋りましたが、その友達が転校すると分かり、修平さんも決断します。
二未さんが4年になった春、3人そろって転校し、二未さんは学校に通えるようになりました。卒業まで英之さんが毎日、送り迎えをしました。
二未さんは「運動場の木の周りの落ち葉を集めて、その上に寝転がって空を見るんです。すんごく気持ちよかった」と言えば、修平さんも「はちみつを採取しようとした先生がいて、巣箱を作ったら、中がゴキブリだらけになってしまった。そんな先生が大好きだったし、めっちゃ楽しかった」と笑います。
ですが、その後に進学した中学校で二未さんは再び不登校になりました。教室は暴言が飛び交い、「いい加減にして」と言った二未さんに暴言がぶつけられるように。二未さんが学校側に「カウンセラーの母に、学校で心の授業をさせて」と依頼して実現。登校できるようになったのは、学校が落ち着き始めた3年生になってからでした。
中学校では、修平さんも不登校になりました。何を言っても、何をしても、何も反応がない教室で、自分が透明人間になったようだったといいます。
みどりさんは「行きたくないなら行かないでいいよ」と伝えました。修平さんは「行かなくていいって言われても『本当は行けって思っているんでしょ』って思いが消えなかった」と打ち明けます。二未さんも「不登校は『だめなこと』って思っていた。親がどれだけ『休んでいい』って言っても、認められるようになったのは最近です」と言います。
そんな2人に、みどりさんは「こっちは本気で行かなくていいよって思っていたのに、ねえ」と苦笑いです。
修平さんは、今も学校が「得意」ではありません。みどりさんは「修平はいつも『自分なんて』って卑下している。そんなことない、と何度も何度も何度も伝え続けています」と言います。
そんな修平さんは昨夏、「一人で長崎市まで歩く」と言い出しました。みどりさんは反対しませんでした。家族全員で、北九州市と長崎市を結ぶ長崎街道の起点に行き、送り出しました。途中、佐賀県内のうどん屋であめ玉をもらったり、水筒の水をいっぱいにしてもらったり。修平さんは「人間不信だったけど、若干直りました」。
子どもの不登校を経て、みどりさんは思っています。「『こうしなさい』と言うことがなくなった。『あなたはどうしたいのか』を聞くことを、徹底するようになった」。英之さんも「親は不登校をしたことがない。だから、学校に行かない、行けないという気持ちは100%はわからない。自分の経験は妨げにしかならないから、子どもに思いを聞くしかない」と話します。
高校進学時も、親子で何時間も話し合いました。何がしたいのか、何を学びたいのか、それは普通高校でいいのか――。二未さんも弟たちもいくつも高校を見学に行きました。その中で二未さんが選んだのは通信制の高校。当時入っていた劇団を生活の中心にしたいと考えたといいます。修平さんは二未さんとは別の通信制高校を選びました。
今、二未さんは、俳優への道を歩み出そうとしています。来春から秋田県にある劇団の養成所に入ります。不登校を振り返ってこう言います。
「自分の考えをとことん尋ねる親は、実は一番厳しいのかもしれない。でも、この両親だったから、私は不登校ができた。そして、今があると思っています」
「不登校を考える親の会・大田」を主宰する野村芳美さん(56)に話を聞きました。
◇ ◇ ◇
不登校の子どもがいる親は、学校に遠慮していることが多いです。「子どものためには、はっきりと言った方がよいのでは」と思うことはよくあります。
もちろん、多くの先生は良かれと思って行動しています。でも、その行動が子どもや親を苦しめていることもあります。例えば、先生が子どもに会いに自宅に来るというパターン。先生は「会いに行きたい」、でも子どもは「来られるのが嫌、会いたくない」という場合、親は双方の気持ちに挟まれてしまいます。そうした時、親は子どもの気持ちに沿って行動して下さい。そのため、場合によっては会いに来た先生に「来ないでほしい」と告げることもあるでしょう。
国は現在、不登校の支援にあたり、子どもの意思を尊重して支援するように指針を出しています。子どもの気持ちを大事にしたいと伝え、先生にもわかってもらうのがいいでしょう。もちろん、言い方はあります。また、学校の先生には、多くの親は、子どもが不登校になると責められたような気持ちになり、特に母親は夫や祖父母、世間の目に苦しんでいるということがあると知った上で、親の話を聞いてほしいと思います。
先生も親も子どもの気持ちを考え、子どもを真ん中に置き、どのような支援がいいのかを一緒に考えていくのが、子どもにとって安心できる支援になります。
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