感動
認知症になっても続く「正解のない日常」ひとり娘が映画にした理由
家族が認知症になったら、何が起きるのでしょうか? ドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』は、帰省したひとり娘のちょっとした変化への気づきから始まります。認知症になった母の苦悩。90歳を過ぎて家事を始めた父。介護ヘルパーが家に来ることへの抵抗感。子どもには頼りたくない気持ち。「だんだんバカになってきよる」「悲しいよね」と漏らす母。そんなリアルな姿をひとり娘の信友直子さん(56)が撮影しました。映画で描かれている「正解のない日常」について話を聞きたくて、老夫婦が住む呉を訪ねました。
映画は広島県呉市に暮らす老夫婦、認知症の母、信友文子さん(89)と介護する父、良則さん(97)の一軒家が舞台です。住宅街を流れる川の近くですが、西日本豪雨は何とか2人で乗り切れたそうです。
直子さんの父は、新聞を読み、切り抜きをするのが日課です。母は元々、社交的で洋裁が得意でした。
東京の大学に進学し、その後ドキュメンタリー番組のディレクターになった直子さんが、帰省して家族とだんらんできるのは年に2回ほど。2014年に母が認知症と診断されるまでは……。
老いた両親と離れて暮らす一人っ子は、少子高齢社会の日本で珍しくありません。
ただ、普通の映画やドラマと違うのは、認知症の診断から2017年までの1200日を撮影したドキュメンタリーであるがゆえに、「正解のない日常」が描かれ、家族には撮影を終えた後も一服さえできないリアルな現実が次々と襲いかかるからです。
その一つが、映画のロードショーを11月3日に控えた9月30日夜の出来事でした。
父は午後9時50分ごろ、横浜で暮らすひとり娘、直子さんのスマートフォンを鳴らしました。
「お母さんがおかしいんだよ」
父の電話は、こんな感じでした。
「ごはん食べたらお母さんが倒れて……」
「お母さんは救急車を呼ばなくていいからというので、明日の朝でいいかな……」
蚊の鳴くような声だったといいます。
90代になってから初めて台所に立つようになった父は、この日も、母の夕食を作り、いつものテーブルで一緒に食べていました。
ところが、だんだん母の体が前のめりになり、姿勢を戻してあげようにも動きませんでした。
父は最初、「私の力が弱くなったのか、女房が元に戻そうという意思がないのか」という感覚だったそうです。
すでに時計の針は午後10時を回っていました。この日の夜、直子さんが呉に帰郷する手段はありません。父を説得して救急車を呼びつつ、直子さんがケアマネジャーの小山麻美さん(39)に電話し、サポートをお願いしました。
救急病院での診断は、脳梗塞。
病名を聞いた父は、こう思ったそうです。
「これは大事じゃ。どうしようか。認知症で私がへこたれましたからね。認知症に加えて脳梗塞。相談する相手がおらんので不安になりました」
へこたれる……。その意味を尋ねると、意外な言葉が返ってきました。
「私の中には、身内は身内で、という考えがありますね。私が元気な間は、面倒をみようという気持ちがあります。いつまで元気が続くか分かりませんがね」
2年前からケアマネジャーやヘルパーを利用し始めていました。
離れて暮らすひとり娘にとって、「少しでも人の目を」と思い、ケアマネと相談してストレスがかからない範囲での利用を始めることで抵抗感を和らげたつもりでした。
それでも……。
しかし、私は「身内のことは身内で」という言葉を聞き、外の人に助けを借りることについて負い目に感じていたのではないかと感じました。
映画の中で、父は介護サービスを受けたくない理由として、「私の美学」と言い、認知症の母でさえ、「人が来るなら、私が掃除をしなくちゃいけない」と漏らしています。
介護保険制度が施行されてから18年。
「身内は身内で」というのは、この年代の人たちの気質も影響しているのかもしれません。
私が呉を訪ねた際、ケアマネと直子さんに取材していると、ふと直子さんからこんな言葉が漏れました。
「私の反省としては、認知症が進行していくとどうなるかをシミュレーションしていましたが、まさか脳梗塞になるとは思ってもいませんでした」
認知症に加え、シミュレーション外の出来事は、患者や家族のその後の生活にも大きく影響し、一般には転換点になる場合もあります。
後遺症がどの程度残るかまだ分からない中、父から「やるだけのことはやったから……」と言う言葉が出てきたそうです。
自宅に戻れなければ、自分は一人暮らしをしつつ、自宅近くの病院か介護施設で母の面倒をみていきたいという趣旨だといいます。
ただ、こんな父の構想について、取材で聞き直しても、ひとり娘の直子さんの名前は出てきませんでした。
なぜか?
父はこう言います。
「私の五体が自由な間は、娘の思うようにさせてあげたい」
それには理由がありました。
呉で生まれ、呉で育った父は、今でも、広辞苑の第7版が出版されると、ショッピングカートを兼ねた手押し車を押しながら、本屋に買いに行くほど活字が大好きです。
「戦争がなかったら、大学に行って、文学者か言語学者になりたかった」
こう言う父にとって、東京で活躍するひとり娘の存在は、「男冥利に尽きる」と目に涙をためながら話すほどです。
家族の姿を撮った映像の映画化が決まると、父は買い物に通う商店など20~30軒に映画のちらしを配って歩いたそうです。
父にとって、直子さんは「希望」。
その気持ちが分かるからこそ、直子さんも「東京の仕事を辞めて呉に帰ると、父は自分が母を介護できないせいで娘が帰ってきた、と思ってしまうので……」という葛藤を抱えていました。
直子さんは、「この映画の主人公は患者である母です」と言います。
ドキュメンタリーとして撮影していきたいと思った理由は、認知症と診断され、葛藤や不安に苦しむ患者と、簡単に割り切れない家族の愛を多くの人に伝えたかったから。
一般的には、家族にとってみれば、診断が確定することでその後の治療や介護のアプローチが絞られていきます。レールに乗って、示される選択肢を選んでいけます。
しかし、患者は少し違います。
映画では、診断から2年ほど経った母が、ダイニングの床に座ってもがき苦しむシーンがあります。
「どうして、どうしてわからんようになるんかね」
「わからん、わからん、わからん。ほんまにどうしたんかね。おかしいね」
ひざに額を当てるように下を向いて、こうつぶやきます。
「迷惑かけるね」
直子さんは語気を強め、「そんなことない。家族じゃない」と声をかけますが、母から帰ってきたのは「まあ、しょうがないね。ごめんね」という言葉と大きなため息でした。
別のシーンでは、呉の新年の風物詩である、海上自衛隊呉基地に停泊する艦船の警笛が、一斉に鳴るシーンがあります。
2017年1月1日午前0時。警笛を聞きながら、母は万歳を3回した後、こうつぶやいています。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。ぼけますから、よろしくお願いします」
せつない。
その年の冬、ストーブの前に座った母は、直子さんにこう言います。
「だんだんバカになってきよる」
「悲しいよね」
「まあ、しょうがないね。人間じゃけんね。いいときばっかじゃない」
母の苦しみ、悲しみが表出しつつも、何とか自分の中で収まりをつけようと努力している姿でした。
映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」公式サイト
この映画は、介護のハウツーを教える映画ではありません。治療法や病状の変化を伝える映画でもありません。
映画化の前に、テレビの情報番組やドキュメンタリー番組で何度か部分的に放送されてきましたが、番組を見た人たちからはネット上でストレートな意見が寄せられました。
「なぜ専門のところに入れてあげないのか」
「ベッドや手すりやもっと住みやすくできる提案があるはず」
「とてもじゃないけど、ひとごとではありませんでした」
映画でも、父がタイル張りの浴室で、たらいに水をはって洗濯をするシーンがあります。廊下に置かれた2槽式洗濯機から、母が洗濯物を廊下に広げて寝転がってしまい、そこをまたいで奥にあるトイレに行く父。病状の進行もあるのか、ふさぎ込んで、ふとんから出てこない母。
一方、一緒に、トーストとコーヒーで朝食をとる場面では、父と母は穏やかな表情を見せています。
ネット上の反応を踏まえた上で思うのは、個人差がある病気の症状に加えて、家族の価値観、ライフスタイル、人間関係、生き様、経済力などといった変数によって、「日常」が違ってくるということです。どちらも、実像であり、直子さんが多くの人に知って欲しい実相だと感じました。
「正解のない日常」です。「認知症とともに」と簡単に言いますが、簡単ではない日常を当事者は抱えています。
直子さんがカメラを持って、両親と近所を出歩くことを「さらし者にしている」と感じる人もいます。一方、直子さんは「結果的にカミングアウトにつながったことで、近所の人が気にしてくれるようになったことはよかった」と考えています。
認知症は恥ずかしいことなのでしょうか?
直子さんの仕事は、フリーのディレクターです。また、独身の一人っ子でもあります。
自身が45歳の時に発症した乳がんの闘病の様子を自分で撮影したドキュメンタリー番組『おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記』のような作品もありますが、多くは現場を地道に追い続けるのが仕事です。
テーマによって現場は変わり、こうした仕事を続けていくうえで、必要な人脈や評価して放送してくれる放送局の多くは東京にあります。
40代、50代の働き盛り世代にとって、今、共働きは当たり前の時代です。一方、この世代の介護離職はなくならず、また仕事と介護の両立に悩む人たちも多くいます。直子さんも、知人からこう忠告を受けているそうです。
「介護離職を1回したら、後が困るよ」
介護する親が亡くなった後、キャリアやスキルを満たすような仕事を探そうとしても、戻る場所がないという意味です。
医療や介護の現場を取材してきた私は、ケアマネと直子さんをインタビューしている際、こういう質問を投げかけてみました。
「入院している病院に転院を求められたら?」
「認知症があるので、個室への入院を求められたら?」
「家族の付き添いができないかと求められたら?」
支える家族が多ければ、相談したり、交代で面倒をみたりすることができますが、直子さんのような一人っ子で独身の場合は、自分で抱え込まないといけないことが多いのが現実です。
まだ答えを持ち合わせていませんでした。
直子さんは、両親のことを考えると「ゆくゆくは帰らないといけない」と思いつつも、これまで慎重に見極めながら父と母の支え合いに頼ってきたのは、「その後の自分の人生も生きて行かなければいけない」というさらなる厳しい現実がイメージされるからかもしれません。
「認知症になったから、終わりではない」
直子さんはこう言います。
映画の中で、何度も口論する父と母。それでも、テーブルに座った穏やかな表情の父と母がこう言葉を交わしています。
「長生きしたね」
「長生きした。いい女房ですね。お世話になります」
だからこそ、これは「正解のない日常」であり、この映画に出てくる出来事は、私やあなたの隣で起きていることかもしれない、と感じさせられます。
認知症について、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。患者や家族の悩みや課題、提案、経験談を募集します。投稿はメール、FAX、手紙で500字以内。匿名は不可とします。住所、氏名、年齢、性別、職業、電話番号を明記してください。
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