連載
#9 辺境旅
地元の利用「ほぼゼロ」の無人駅は必要?小説「塩狩峠」から考えた
JR北海道の宗谷本線にある一つの無人駅を巡り、存続を求める署名活動が静かに始まっています。駅は「塩狩駅」。待合室にあるノートには「高校の課題図書で読んだ『塩狩峠』。それから15年経って、この駅を訪れることができました」といった書き込みもありました。鉄道ファンには、ラッセル車の除雪や秘境駅巡りでも知られています。この地に、駅は必要なのか。関係者の話から考えてみました。
停車する列車は、平日は1日上下各9本。
駅の周囲は、丘の上に和寒町が1999年にオープンさせた「塩狩峠記念館」と、2013年に地元の人が始めたユースホステル「塩狩ヒュッテ」、そして約1600本のエゾヤマザクラが植えられた「塩狩峠一目千本櫻」のある公園だけです。
笹や木々に囲まれ、土のホームのあちこちにはタンポポが咲き乱れていました。
ただ、人影はありません。
写真を撮りながら歩いていると、1枚の貼り紙が目に入りました。
<宗谷本線 塩狩駅存続を求める要望>
<塩狩駅を存続させてほしい、その思いを形にするために署名活動を始めました>
<塩狩ヒュッテ玄関前に署名用紙と投函箱を設置しています>
ヒュッテを訪ねると、オーナーの合田康代さんがいました。署名の呼びかけ人です。
署名を始めるきっかけになったのは、4月28日の地元紙の報道でした。
「宗谷線の無人29駅 管理見直し協議へ 沿線自治体とJR」
北海道では今、JR北海道単独での赤字ローカル線の維持が難しくなっています。
沿線自治体でつくる宗谷本線活性化推進協議会の事務局がある名寄市役所に聞くと、4月27日に開かれた会合で、自治体ごとにJRと協議して、駅の廃止や自治体管理への移管なども含めて話し合っていくことが合意された、ということでした。
合田さんは「黙っていたら、無くなってもしょうがないと思われても仕方がないと思うので・・・」と話します。
「駅を利用する人に接するのは、うちと塩狩峠記念館だけです。駅が無くなれば塩狩はもっと衰退してしまう。(署名活動を)やるのはうちしかないと思いました」
旭川など各地から多くの人が桜の花見に来る5月12日に署名活動をスタートさせました。
今は、ヒュッテの玄関前と、ホームページで呼びかけています。
大阪出身の合田さんは、夫が和寒町出身という縁で、家族で関西から和寒町に移住しました。市街地にある家で暮らしつつ、この地で念願の宿を始めました。
「三浦綾子さんのファンでもクリスチャンでもありませんが、子どもの頃見た『塩狩峠』の映画は、とてもインパクトがあったので覚えていました」
小説のストーリーは、実際に起きた鉄道事故を参考にしています。事故の内容は・・・。
1909年(明治42)2月28日、最後尾の客車が突然連結器から離れてしまいました。その客車は、蒸気機関車の進行方向とは逆に向かって峠を暴走。乗客の1人として乗っていた鉄道職員が乗客を救おうとして色々試みた結果、車輪の下敷きになってしまい、そのことによって客車は減速して停車した、という話です。
同乗していた鉄道職員が客車のデッキから転落したのか、小説の主人公のように、自らの意思で飛び込んで止めようとしたのか、議論があるという人もいます。
また、鉄道事故が起きた明治時代には、塩狩駅はなく、1916年に塩狩信号所として設置され、駅に昇格したのは1924年でした。無人化は1986年です。
新潮社によると、小説「塩狩峠」の単行本は1968年9月に初版本が発行され、現在まで63刷、40万1500部が出ています。文庫本も1973年に発行され、これまでに98刷336万1000部が出ています。今年も「新潮文庫の100冊」に選ばれているように、読み継がれている小説だそうです。
新潮社のサイトを見てみると、こう書かれています。
「他人の犠牲になんてなりたかない、誰だってそうさ――そうだろうか、本当に?」
こうした時代を超えて通じる命題があるからこそ、読み継がれ、いつか訪ねてみたい地と胸の奥に抱かせているのかもしれません。
大学生時代、書評合戦をして投票で順位を決める「ビブリオバトル」に、小説「塩狩峠」で参加したことがある女性(25)は、この小説についてこのような感想を抱いたそうです。
「今日では、あまり一般的に読まれている物語ではないかもしれません。けれども、生と死、他者と自己、宗教、愛といった人間の根源的問いが散りばめられ、今日のどの世代でも十分に共感し得る、読み応えのある作品であると感じました」
読み継がれていることについても、こう感じています。
「若者にとっても、共感すると同時にはっとさせられる作品であることは確かですが、年を重ね心と時間に余裕ができると、改めて主人公の心情・思考の変遷、そしてモデルとなった鉄道職員の勇敢な行為に思いを馳せるべく、現地を訪れたくなるのではないでしょうか」
塩狩駅を巡る最近の動きについても「無責任なことは言えないですが」という条件付きながら、こう述べています。
「作品の一読者としては、実際にあった勇敢な出来事にフィクションが丁寧に織り込まれて生まれたこの美しい物語の象徴的舞台が、人々の記憶にこれからも留まっていってほしい、と思います」
最低気温マイナス36.8度(1985年1月25日)を記録したことがある和寒町では、温暖な九州や四国などと違い、無人駅を維持するのも簡単ではありません。北海道、特にこの地は豪雪で知られているからです。
ラッセル車が雪を飛ばす写真を撮りに、厳冬さなか鉄道ファンが訪れる駅とも言えますが、塩狩駅の待合室の壁には、「冬期除雪スタッフ募集!」「シフト制 泊まり勤務 勤務時間8:15~翌日8:15(24時間)」などと書かれた貼り紙が残っていました。
ヒュッテを経営する合田さんの夫も、かつてこの除雪スタッフをしたことがあるそうです。
JR北海道に聞いてみました。
「無人駅をほったらかしにすると雪に埋まってしまいます。全線で除雪スタッフが必要です。他のJRに比べて人件費がかかってしまいます」
宗谷本線の沿線自治体との協議についてもJR北海道は次のように説明します。
「無人駅の廃止ありきではありません。色々な方法を自治体と考えていきたいと思います」
和寒町内には、もう一つ無人駅があります。市街地にある「和寒駅」です。町が今年2月9日、乗降客数を調べたところ、のべ199人でした。
町の担当者は「一番多いのが、通学や通院、買い物。日常生活の足として使っているのでしょう」とみています。
しかし、塩狩駅の乗降客数は調べられませんでした。観光客が中心で、しかも冬だからです。
合田さんによると、駅を利用できる距離に住む2世帯はどちらも高齢者で駅を日常的に使っていないそうです。
塩狩峠記念館を訪れる人も、車を利用する人たちが多いといいます。町によると、塩狩峠記念館の年間利用者数は約3000人です。
日本全国で、地域活性化のために観光客、またインバウンド(訪日外国人旅行客)を呼び込もうとしています。
地元以外の人たちには、「和寒」より「塩狩」の方が有名と言われており、町は塩狩を観光拠点にする構想を持っています。しかし、人口約3400人の小さな町だけに、予算は限られています。
和寒町産業振興課の担当者は、「昔は温泉旅館があったのでにぎわっていました。しかし、閉鎖された後の建物は、景観上よくなかったので町が買い取り、取り壊しました。今後、公園として整備していこうと考えています」と話しています。その近くには、今は閉じられたままのコンビニエンスストアもありました。
合田さんのヒュッテの年間宿泊者数はのべ900人。塩狩駅の利用者は2~3割いるそうです。
「塩狩峠」の舞台と知っていて訪ねてくる人、30代の女性の一人旅、リタイアした後の人、ツーリング客、家族連れ、お客さんは様々です。
旭川から北へ36キロ。有名な観光スポットを効率よく回るルートから外れていますが、最近はインバウンドも少しずつ増えているそうです。
塩狩駅の存続を願う署名は、6月末をめどに集め、その後、和寒町とJR北海道へ届けられる予定です。
実際にあった鉄道事故をモチーフにした有名小説の舞台の峠にある駅。合田さんはヒュッテを利用する旅人に、少しずつ町が観光地として整備していることを伝えると、こう言われたそうです。
「どこにでもあるような観光地にするより、塩狩は、今のようなぼんやりした雰囲気がいいんだけどな」
合田さんは「こういう人が結構いるんですよね」とつぶやいていました。
静かな森と土のホームで、世代を超えて、「塩狩峠」の命題を考える場であり続けることが大切なことかもしれません。
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