感動
20キロ先の「住めない故郷」とサボテン パレスチナの長老が願うこと
約20キロ先に生まれ故郷があり、いつでも行くことができるのに、住むことはできない。そんな人たちが中東のパレスチナにいます。イスラエルの建国で故郷を追われて70年、ふるさとを思う気持ちは消えることがありません。(朝日新聞テヘラン支局長・杉崎慎弥)
エルサレムから西に約20キロ、砂利道を進んだ先にある標高約700メートルの山岳地帯。草木が生い茂り、獣道があるだけですが、わずかに石畳が残っています。
ここには70年前まで、約300人のパレスチナ人が住む「ベイトスール村」がありました。10歳まで生まれ育ったアリ・ムハンマドさん(80)は年に10回以上、長男や孫たちとこの場所を訪れます。日本でたとえれば、いまの住まいからは東京-川崎駅間くらいの距離。ですが、住むことはかないません。
「車なら30分ぐらいだけど、世界で一番遠い場所なのです」
東エルサレムの難民キャンプの近くに住むムハンマドさんは、パレスチナ人ですが、イスラエルの市民権はないものの、東エルサレムの居住権を持っています。
同じパレスチナ人でも、ヨルダンとの国境線となっているヨルダン川の西岸や、イスラム組織ハマスが実質的に支配をしているガザ地区の住民は、イスラエルの厳しい検問があるため、許可証がない限り、自由に移動ができません。
ムハンマドさんは比較的自由にイスラエル領内を移動でき、ベイトスール村があった場所にも行けます。ただ、イスラエルの市民権がないため、昔パレスチナ人が住んでいた土地であっても、居住は許されません。
「私は12人の子どもと、130人の孫に恵まれました。でも、70年経っても、家の前でアラビア語を勉強したことや、友達と遊んだ思い出は消えません。生まれ故郷に戻れるなら、全てをなげうっても構いません」
故郷を追われたのは1948年4月のこと。ベイトスール村の長老に「ユダヤ人が来る。逃げないと殺される」と突然告げられ、約300人いた村人は着の身着のままで近くの村に逃げ込みました。
ムハンマドさんは「大人たちがただならぬ様子なので、大変なことが起きているのはわかりました。でも、楽しい思い出が詰まった村からなぜ逃げなくてはいけなかったのか、いまも怒りは消えません」と言います。
各地を転々とする避難生活を続け、1950年、やっと東エルサレムに居を定めました。イスラム教の聖地とされるモスクなどがある地区です。エルサレムは1948年の第1次中東戦争で東西に分割され、ここはヨルダン領になっていました。
ムハンマドさんは結婚。子どもも生まれ、安定した生活を送っていました。
しかし、1966年に突然、ヨルダン軍から「ここはユダヤ人の場所だ」と言い渡されます。「従わないなら逮捕する」と脅され、やむなくエルサレム郊外の難民キャンプに移り住みました。
そして翌1967年の第三次中東戦争で、イスラエルは東エルサレムやヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領。ムハンマドさんは再び自宅に戻れなくなりました。
「イスラエルは私たちの土地を奪い、人生を残酷なものにしました。私の子どもたちもイスラエルとの抵抗運動で逮捕されたり、けがをしたりして傷つけられました。私の人生の全てがユダヤ人とパレスチナ人の争いに翻弄されてきたのです」
2018年4月中旬、故郷を訪れたムハンマドさんに同行しました。かつての住まいは破壊され、ここが村だった面影は全くありません。
村の入り口だったという場所に、サボテンが群生しています。ムハンマドさんは言いました。
「イスラエルとユダヤ人は私たちパレスチナ人を追い出すことはできても、自然を追い出すことはできませんでした。サボテンは、ここにパレスチナ人が存在していたことを示す証しです」
パレスチナ人は伝統的に、居住地の周りにサボテンを植えます。70年の時を経て、なお残っていたのです。
毎年5月15日はアラビア語で大破局という意味の「ナクバ」と呼ばれる日です。パレスチナ人が故郷を追われたことを心に刻む日で、2018年でナクバから70年が経ちました。パレスチナ自治区ガザでは3月末から大規模な抗議デモがあり、イスラエル軍の発砲で120人以上が命を落としました。
パレスチナ人は「いつか自分たちの住んでいた土地に帰れる」と信じて、抗議活動を続けています。ところが、アメリカのトランプ大統領は昨年12月、国際社会の反対を押し切り、エルサレムをイスラエルの首都として認めると決めました。
イスラエルとパレスチナの間を取り持つと期待されてきたアメリカ。トランプ大統領のイスラエルに寄り添った態度で、パレスチナ人の故郷に戻る願いは日に日にしぼみつつあります。
1/5枚