連載
#7 東京150年
資生堂の原点、120年続く化粧水オイデルミン 「健康的な化粧を」
東京から発信された「美」は、日本女性の生き方の歴史でもあります。1872(明治5)年に銀座で誕生した資生堂は、その中心にありました。「健康的で近代的な化粧」から「美」が日常になるまで。時代を彩ってきた美の世界をたどります。(朝日新聞記者・宮坂麻子)
明治、お歯黒と眉そりをやめた女性たちは、西洋から伝わった健康で自然な「美」に目覚めた。
1872(明治5)年に銀座で創業した資生堂。発売から120年たった今も形を変えて売られる拭き取り用化粧水「オイデルミン」の広告が、1907年の東京朝日新聞に残る。なめらかな皮膚、脂肪のない顔や首、あせもも防ぎ、日焼けもせず……。今も魅力的な言葉が並ぶ。
明治以前、おしろいには鉛が含まれ、当時は鉛中毒が問題になっていた。「海軍病院の薬局長だった創業者の福原有信は、その状況を憂いて、科学的な根拠に基づいた健康的で近代的な化粧を開発しました」と資生堂企業文化部の益井澄子さん(51)が解説する。
銀座で資生堂を切り盛りしたのは有信の妻、徳だ。「おけ屋の娘だった徳は結婚後、薬剤師の資格も取った。銀座の『職業婦人』のパイオニアです」と、元資生堂で男女共同参画を推進した、昭和女子大客員教授の山極清子さん(66)は言う。
「婦人画報」などの女性誌が次々創刊。大正直前には、女性解放運動の平塚らいてうが「元始、女性は実に太陽であった」などと発表した。
大正、「美」は、自己表現へ。タイピスト、電話交換手などの職業婦人が台頭し、おしゃれをして銀座を歩き始めた。TPOや肌色に合わせて使う「七色粉白粉」を資生堂が発売したのは17年。関東大震災の前年、美容科、美髪科、子供服科を開設して、トータルの「美」で女性の社会進出を支援した。
昭和、「美」は全国に広がった。
資生堂アイスクリームパーラーには「モガ(モダンガール)」が集まった。34年に登場した「ミス・シセイドウ」(現ビューティーコンサルタント)は、7カ月もの研修で広い知識と教養を身につけ、全国を回り「近代美容劇」を上演。テレビのない時代に正しい美容法を伝え、地方の女性のあこがれになった。
「ぜいたくは敵だ!」の戦時体制を乗り越えた敗戦翌年には、鐘淵紡績(現カネボウ化粧品)が化粧品事業を拡大、コーセーも創業した。
資生堂は同年に未来への期待を込め、原節子さんのポスターを作製。61年にピンクの口紅で「ピンクの時代」を築いた「キャンディトーン」、東京五輪の64年には真っ赤な口紅で日の丸をイメージした「メイクアップトウキョウ」を展開。66年、白い水着に小麦色の肌の前田美波里さんのポスターは盗難が相次ぐほどの話題に。高度経済成長で豊かさが広がり「美」は日常になった。
「美」を求める女心は、いくつになっても変わらない。
日比谷シャンテにあるメイクアップ&フォトスタジオ「オプシス」。なりたい自分のイメージを選び、メイクとヘアで美しく「変身」して写真撮影する「奇跡の1枚」は、シニア層に大人気だ。先月も開店から60~80代の女性が次々とやって来た。
品川区の女性(78)は、嫁入りの時の帯で作ったバッグから小さな新聞広告の切り抜きを取り出した。「いつか来ようと思って、ずっと楽しみに持っていたの」。メイクを施し、胸元を飾り……。生前遺影にするつもりという。「やはりいつまでも美しくありたい」
娘と母のペア企画をしたところ、母親たちの感動が予想以上に大きく、シニアビューティーを始めた。子育て、仕事、介護、自身の老い……。それぞれの人生の「ご褒美」に、自分らしい「美」を贈る。「娘さんからのプレゼントや、生前遺影にと毎年来られる方、帰りは元気になって杖を忘れられる方もいらっしゃる。美しさは、いつの時代も女性を元気にさせます」と、黒崎正子社長(58)は話す。
さらに今は、画像投稿SNS「インスタグラム」に映えるメイク法が、ネットでも街でも話題になる。
平成も、まもなく幕を閉じる。自分を楽しむ「美」は、どう進化していくのか。
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