連載
#2 東京150年
木村家あんぱん、広まったのは日清戦争 資生堂は薬局がルーツだった
あんぱんの「銀座木村家」や資生堂など、都心の一等地・銀座には江戸が東京に変わった頃から「顔」である老舗があります。時代の変化を見つめながら、「いつものこの味」や最先端の「美」を届け続けてきました。2018年、今年は江戸が東京になって150年の節目の年。銀座の歴史をたどります。(朝日新聞東京総局記者・横川結香、宮坂麻子、河井健)
銀座の一等地で1個150円のあんぱんを売っているのが「銀座木村家」です。1869(明治2)年の創業で、その5年後には日本のパンの「定番」を生み出しました。
ほのかな酒の香りと、もちもちした食感。当時は入手困難だったイースト菌の代わりに、米と糀(こうじ)、水で作った酒種を生地に混ぜて発酵させました。元は武士だった初代・木村安兵衛と親交があり、味を気に入った旧幕臣・山岡鉄舟の働きかけで明治天皇への献上も実現。日清戦争時は各地から集まった軍隊でもふるまわれ、全国に名が広まったといいます。
製法はほとんど変わりません。かつてはレシピを残さず、職人が口伝えで味を受け継いできました。
銀座の自社ビルで売る分は、今も手作業であんを包んでいきます。生地は湿度や気温に敏感です。かすかな変化を感じ取るのが味を守るひけつといいます。酒種室室長の八度慎一郎さん(67)は「お客さんは『いつものこの味』を求める。味を保つのは本当に難しい」と苦笑します。
いま店頭には、うぐいすや栗などの6種のほか、季節限定のあんが並んでいます。客の好みの多様化に応えるようにラインナップを増やしても、不動の一番人気はあんぱんのままのようです。
資生堂は1872(明治5)年に東京・銀座に誕生しました。時代の変化を見つめながら、日本の美をリードし続けてきました。
銀座のデパート内の資生堂。ビューティーコンサルタントがタブレット端末にお客の顔を映しながら、「オレンジ系の色で冒険されてはいかがでしょうか」と話しかけています。画面上で口紅やアイカラーを選ぶと、映った顔に、一瞬にしてその化粧が施されます。選択を変えるたび、いくつもの「私」が登場しました。
資生堂はもともと、日本初の洋風調剤薬局でした。1897年に拭き取り用化粧水「オイデルミン」、98年に後の「花つばき」となる香油「花かつら(オイトリキシン)」を発売し、化粧品に乗り出しました。オイデルミンは「良い皮膚」、オイトリキシンは「良い髪」のギリシャ語に由来する造語です。
男性中心の当時は、女性の美は健康の延長にありました。「年に何度も洗わない髪を香油をつけて結い、皮膚も清潔に保とうとした」と、同社の益井澄子さん(51)は話します。
資生堂は、女性の活躍につながる最先端の「美」を銀座から発信し続けてきました。大正モダンガール、戦後は銀幕のスター風に、バブル期の真っ赤な口紅、ナチュラルメイク……。
益井さんは言います。「いまは一つの流行ではなく、多様な個性の時代です」
東京・銀座で130年近く店を構える老舗洋服店があります。スーツ1着最低25万円。フルオーダーの相場は、昭和初期から「大卒初任給の1.5倍程度」と変わりません。安くはありませんが、根強いファンに支えられてきました。
日本人の洋装の始まりは時代が明治に移る頃にさかのぼります。「高橋洋服店の前身は明治半ばに開業しました。戦前の有力政治家の後藤新平は1900年代初めに継いだ2代目の顧客だったといいます。「店が作って現存する一番古い服が後藤さんのフロックコートです」と4代目の高橋純さん(68)は話します。
高度成長期、サラリーマンが増え、大量生産の安価なスーツが出回るようになっても、店では注文を受けて作るやり方を変えず、店舗も増やしませんでした。
ゆったりとした作りのバブル時代、シルエットが細身の昨今。そんな流行は追わず、店が目指してきたのは「着やすく、形崩れせず、仕立てのいいもの」。高橋さんは「いい洋服っていうのは普遍的なものだと思うんです」と話します。
近年、若い世代の新規客も目立ってきました。5代目を継ぐ翔さん(33)は言います。「ネット(通販)にはモノがあるだけ。ここでは話ができる。それがテーラーで服を買うということなんです」
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