連載
#20 未来空想新聞
AIでよみがえる…82年前の沖縄の「記憶」 戦前の写真をカラー化
戦火にさらされる10年前、1935年撮影の沖縄の白黒写真。それを人工知能(AI)によってカラー化する。朝日新聞と沖縄タイムスは、首都大学東京の渡邉英徳准教授のチームとともに、沖縄の人々の記憶をよみがえらせる取り組みを続けています。最新のテクノロジーと、現地の人々の声から見えたのは、82年前と地続きでつながっている沖縄の日常でした。(與那覇里子)
写真は1935年に、大阪朝日新聞の記者が撮影。朝日新聞大阪本社に大量のネガが保存されていました。戦前の沖縄の写真の多くは焼失しており、当時の沖縄の生活を知る数少ない資料です。
それらの写真を、人工知能を使った自動色づけの技術などを活用してカラー化しました。カラー化の技術は早稲田大の石川博教授らの研究グループが開発しました。
沖縄タイムスを休職し、首都大学東京の渡邉英徳研究室でメディアについて研究中の私は、今回、カラー化した数点の写真とともに沖縄へ赴き、撮影地と思われる場所や関係者の話を集めました。
沖縄に持っていったのは市場の風景を写した1枚です。
現在の那覇市東町にあった市場「那覇ウフマチ」は、人力車が走り、女性や子供たちでにぎわっていたようです。
着物に身を包み、長い髪を結った女性たち。竹カゴ(バーキ)には商品を並べ、客を待っています。
昭和から平成に変わる頃。小学校に上がろうとしていた私は、母に手を引かれて訪れた那覇市の公設市場や農連市場で、野菜などが入った竹カゴを頭に乗せて歩く着物姿のおばあさんたちを時折見かけました。この写真を見た時、あのおばあさんたちと重なって、懐かく思えました。
カラー化された写真を細かく見てみると、手前から2番目のおばあさんの手元に目がいきました。ちょうど手首のあたり。白黒写真では分かりにくかったのですが、これは「ハジチ(針突)」と呼ばれる沖縄独特の入れ墨です。ハジチは、女性が結婚した証や成人になるための通過儀礼として入れたと言われています。
カラーにすると、その入れ墨がくっきりと見えます。手前のおばあさんの手の甲にも見ることができます。モノクロの資料写真では見たことはあったものの、日常の風景にあったことが実感できました。
1899年に入れ墨禁止令が発令され、今はもう、文化としてなくなってしまいましたが、色付けの効用を見た気がしました。
しかし、このカラー写真。遠目で見ると違和感がぬぐえませんでした。手前と奥でどうも色合いが違う。奥に映る木や建物、人々の肌については、AIが自信をもって色をつけているように見えますが、カゴに入っている商品や手前のゴツゴツしたものの色は、薄い茶色などでのっぺりしていたり、光で白くはじかれていたりしています。
AIは、これは何かと分かるものを学習していきます。例えば、海は海、髪は髪、といったように、学んでいるはずです。しかし、分からないものには、色はつけきれないのではないか。特に沖縄の農産物は本土と大きく違います。地域特有の物や色合いをAIは知らないかもしれません。
そして、沖縄で生まれ育った私も、82年前の写真に写っていたカゴの中身や手前の農産物に関して、全くわかりませんでした。
人間が知らない物をAIだって色を付けられないのではないか。でも、あの時を生きている人たちには分かるのかもしれない。
1935年の色を探す旅は、写り込んでいるものが何かを探すことも目的の一つになりました。
那覇ウフマチの近くで生まれ育った糸数昌和さん(83)にカラー化した写真を見てもらいました。5、6歳から市場周辺で友だちと遊び、あの時の風景をよく覚えているそうです。
カラー写真が表示されたパソコンの前で糸数さんは「白黒と違って遠近感もボリュームも奥行きもある」と感心しきり。虫眼鏡で農産物をのぞき込み、解説してくれました。
「手前の左にあるゴツゴツしているものは山芋。茶色で、戦前は、今と違って大きかった。ヤンバルから持ってきていたと思うよ」
「一番奥のカゴはおそらくニンニク。1玉ずつ、山積みになっている。昔は袋づめしていたわけじゃなくてカゴにバッと入っていた」
「その隣は島らっきょう(本土に比べると小ぶりで香味が強い)。少し小さいらっきょうだね」
「奥に見える白っぽい着物の女性が持っているのは島かぼちゃ」
「でも、一番手前のおばぁが売っているものが分からないね」
そばにいた妻の千恵子さんも、画面をのぞき込みます。
「島らっきょうのようにも見えるけど、分からんね。野菜のようにも見えるけど」
結局、何を売っているかまでは特定できませんでしたが、当時の話をたっぷり伺えました。
市場には午前8時ごろから南部の東風平(こちんだ、現・八重瀬町)や小禄、糸満などから竹かごを担いで売りに来る人たちであふれていたそうです。
糸数さんは「那覇の人は屋根のあるお店を持っていたけど、遠くから来て道に商品を並べるのは早い者勝ちだった。そして売ったお金で反物や昆布を買って帰っていったよ」と話してくれました。
写真が撮影された場所は主に野菜を売る区画で、他の区域では、米、麦、砂糖、魚などが並んでいたそうです。
しかし、あの竹かごの中身は一体なんだろう。
記憶がはっきりしている糸数さん夫妻が分からなかったとしても、突き止めたい気持ちが残りました。一人で戦前の写真集を調べてみましたが、細長い野菜のようなものが何であるかは分からない。
そこで、同時期に沖縄タイムスで開かれていた1935年の写真の展示会に足を運び、市場の写真の前で来場者にインタビューをすることに。
当時を生きていたと思われる方に片っ端から声をかけました。しかし、分かる人は現れない。その日の展示会が終わるまであと20分。数枚ある市場の写真をじっと見つめる男性がいました。
「こんにちは」と声をかけると「このトウガンを売っている女の人、後ろ振り返ってもらえないかねー」と写真を指さして話しかけてくれました。
「スイカのように切られているのは、トウガン。昔は、こうして市場に並べて売っていたわけ。小さい頃、自分のおばさんも市場でこうやってトウガン売っていた。時々、遊びに行って小遣いをもらっていたから、振り返ってくれたらおばさんかどうか分かるんだけどね」
男性の話にうなずきながら「私も振り返ってほしいんですが、残念ながらこの女性が振り返っている他の写真はないんです。もし、当時の様子をご存じであればお話を聞かせてもらえませんか」とお願いしてみた。すると、「貸してごらん」と私の取材ノートに、解説をしながら市場の地図を描いてくれました。
話によると、野菜市場は、表通りから奥にあり、隣には魚肉市場や海産物を専門に取り扱っていた区域があったといいます。
――野菜と海産物の商品は明確に分かれていたんですか?
「あのころ6歳だから、売っているものまで全然覚えてないな」
――この色付け写真の手前のバーキの商品がどうしても分からないんですよ
「野菜の繊維ではないの?」
私たちのそんなやりとりを聞いていたのか、通りかかったおばあさんが「これはナチョーラよ」とつぶやいた。ナチョーラとは、沖縄の方言で海藻の一つ、海人草のこと。
「カゴに入っているのは、まだ乾燥される前。生のままかねぇ。ナチョーラは乾燥させて保存するわけ。昔は虫下しのために親にこのナチョーラを飲まされた。学校でも年に1回は必ず飲まされた。あまりにも飲みにくいから鼻をつまんで、黒砂糖入れて飲んださ。野菜市場には、海藻も時々は売っていたから、あっていると思うよ」
それまで全く手がかりがなかったが、突然の一言で、カゴの中身は判明しました。
その後、「ナチョーラかもしれない」と60代の義理の両親に写真を見てもらうと、「そうだね。これ、小さい頃飲まされたよ」と言われ、海人草の指摘に納得しました。
乾燥された海人草は、現在も那覇の市場で売っているようですが、私は存在さえ知りませんでした。
調べてみると、乾燥しているものと生のままではそもそも見た目が全然違いました。乾燥の海人草は、白みがかった褐色で、サンゴの破片のよう。図鑑にある生の海人草は、緑がかっていて、細長い。これは、分からない。
でも、カラー写真をよく見ると薄い緑色が付いています。海人草だと判断したのでしょうか。AI、やっぱりすごい。まだ海人草を手に入れた暁には、できるだけ本物に近い形で色をつけてみたいと思いました。
後日、私は手書きの地図を頼りに野菜市場があったであろう場所を探し、歩いてみました。ノートの向きを横にしたり、斜めにしたり、東町周辺をうろうろ。ここだと思って写真を撮っていましたが、自信がなく、通りかかった高齢の女性に聞いてみました。
「野菜市場はもっと奥。端っこ。海側」
女性にそれだけ言われた私は、海側に歩きました。
1935年、あんなにもにぎわっていた市場は、戦争で焼けてしまいました。そして戦後は沖縄が米軍の施政下におかれ、市場の目の前にあった那覇港が軍港となってしまいます。那覇港から半径1マイルは立ち入り禁止となり、那覇の中心地に人々は戻ることができませんでした。
沖縄の復興は、立ち入り禁止区域外ギリギリの場所から始まっていくことになります。ちょうど、焼き物で有名な那覇市壺屋や牧志あたりに街が作られていきました。水はけが悪く、家屋もほとんどなかった国際通りは発展し、ヤミ市から出発した公設市場もにぎわっていきました。
あの82年前の市場の面影は今の東町には残っていません。街はすっかり変わってしまいました。
写真にある野菜市場に近い場所に立ってみました。そこの風景を背にすると、船が見えます。ちょうど、那覇港です。
AIを絶対的なものだと思うと、見えなくなるものもある。AIだって、分からないことがある。
でも、AIがカラー化した写真のおかげで、出会えたものもある。糸数さん夫妻のお話や、写真展で出会った男性の記憶。
市場の写真をもう一度、見つめてみる。当時を生きていた人たちの熱気と街の様子がよく分かる。着物の色、人々の表情、シワの深さがよく見える。やっぱり街に活気がある。遠い世界ではなく、きっと最近あったのだろうと思わせてくれます。
AIによってカラー化された写真と、現地の人たちの記憶は、82年前との地続きを自分の生活と照らし合わせ、感じさせてくれるものでした。
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