話題
イスラム国とサダム・フセインの「悲しい関係」 元将校「戦争相」に
数あるイスラム過激派組織の一つに過ぎなかった「イスラム国」(IS)は2014年6月、イラク第2の都市で、約200万人の人口を抱えるモスルを制圧し、世界を驚かせました。背景には宗派・宗教間の対立や、かつてのイラク大統領の影響があったと考えられています。(朝日新聞国際報道部)
ISはもともと、2001年にアメリカで起きた同時多発テロ事件を主導した、国際テロ組織アルカイダの流れをくんでいます。
ただ、「国家」としてのモスルの統治を支えたのは、かつてのサダム・フセイン大統領を支えた「バース党」の幹部や、当時の軍の生き残りだったと指摘されています。
ISがつくった国家では、「戦争相」などの重要な仕事を旧イラク軍将校が務めました。
サダム・フセインは1979年にイラクの大統領になると、翌1980年にイランへ侵攻(イラン・イラク戦争、1988年に停戦)。1990年にはクウェートに侵攻し、アメリカ軍を中心とする多国籍軍と「湾岸戦争」になりました。1991年、イラク軍がクウェートから撤退し、停戦となっています。
その後も独裁体制を続けましたが、2001年の同時多発テロ事件をきっかけにしたイラク戦争(2003年)でアメリカ軍が制圧。身柄を抑えられ、2006年に死刑が執行されました。
死後10年近くも過ぎて、なぜサダム派の残党が現れたのか。背景には、根深い宗派の対立があります。
イラクの人口は6割強がイスラム教シーア派、4割弱がスンニ派です。他にキリスト教徒、ヤジディ教徒などがいます。
サダム・フセインはスンニ派。数で勝るシーア派の民衆が力を持つのを恐れ、冷遇していました。これに対し、サダム政権の崩壊後に首相になったマリキ氏はシーア派で、逆にスンニ派を弾圧。時に略奪や拷問もあったと報じられています。
スンニ派のほとんどはイラクの北部や西部に住み、モスルはその中心都市。シーア派中心のイラク政府に反感を持つ市民が少なくなかったと言われています。
ISもスンニ派で、シーア派を「邪宗」として敵視しています。
サダム派残党にとってISのモスル侵攻は、シーア派中心の政府に対抗する、またとないチャンスだったというわけです。
「初めは歓迎した人たちもいた」と、工場の技師だったバシム・ジャワディさん(58)。ところが、ISは支配を固めるにつれて、暴力と恐怖で支配する組織の本性を見せ始めました。指示に従わない住民はむち打ちにしたり、公開で処刑に。
こうした暴力はスンニ派に対しても行われましたが、異宗派、異教徒にはさらに激しさを増しました。
モスル近郊にあるキリスト教徒の街カラコシュでは、約5万2千人いた住民のほとんどが退去。教会は戦闘員の射撃訓練場として使われ、約7千軒あった民家の半数以上が全半壊の状態です。
少数派のヤジディ教徒の女性は「性奴隷」として人身売買されました。「転売」のたびに暴行され、逃げればムチでたたく拷問。IS戦闘員との結婚の強制や、逃げないように両足を切断する「有罪判決」も出されていました。
「イラク・ボディーカウント」というアメリカとイギリスの非政府組織が出した統計によると、2014年からの3年間に、イラクではISによる暴力で約2万5千人が死亡したといいます。
イラク軍がモスルを奪還したことで、避難していた住民は少しずつ戻っています。
ただ、宗派・宗教間の亀裂は以前より大きくなってしまいました。避難民キャンプで暮らすカラコシュ出身の女性は、「ISはどこに隠れているかわからない。怖くて帰れない」と言います。
マジード・アタラ神父(31)は「キリストは許しを教えた。私たちキリスト教徒は、スンニ派の住民と和解できる。ただ大事なのは、ISの思想に染まった略奪者に、後悔の念を抱かせることだ」と話しています。
1/46枚