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日報問題、「運命の会議」の謎に迫る 稲田氏・背広組・制服組の暗闘
南スーダンPKO(国連平和維持活動)の「日報」をめぐる防衛省・自衛隊の大混乱は、稲田朋美防衛相が辞任する事態に発展しました。一体何が起きていたのか。元検事がトップの防衛省・防衛監察本部による特別防衛監察の結果と、これまでの取材を重ね合わせながら、考えてみました。すると、大臣、「背広組」(防衛官僚)、「制服組」(自衛官)という、この役所特有の三者三様の立場が影を落とす構図が見えてきました。
焦点は、半年ほど前の2月13日と15日に防衛省で開かれた、稲田氏と防衛省・自衛隊幹部らの日報問題をめぐる会議でした。手書きの議事録とされる紙の存在が報じられるなど、この場でのやり取りをめぐる報道合戦が7月入りに過熱しました。
陸上自衛隊では、5月まで南スーダンに派遣されていた施設部隊が、中央即応集団司令部(神奈川県相模原市)に活動を毎日報告する日報を作っていました。昨年7月に派遣先の首都ジュバで大規模戦闘があった当時の日報について情報公開請求があり、陸自が「廃棄し不存在」と説明したため、防衛省は12月に不開示としました。
ところが今年1月になって陸自が日報は実はあったと防衛省内で言い出しました。防衛省・自衛隊幹部らはこの件を伏せることにしましたが、その話し合いが稲田氏を交えた2月にあった二度の会議でされたのかが問題となっていました。
稲田氏は7月28日、自身が命じた特別防衛監察の結果発表と同時に防衛相辞任を表明しました。最後の記者会見でも、こう言いました。「報告を受けた認識は今でもない。私の一貫した情報公開への姿勢に照らせば、そうした報告があれば必ず公表するよう指導したはずです」
この言い分、実はわからなくはありません。というのは2月の会議の少し前、稲田氏は日報問題で報告を上げてこない防衛省幹部らに怒っていたからです。
話はさらに2カ月前にさかのぼります。昨年12月12日、自民党行政改革推進本部の河野太郎本部長から、防衛省は日報は不存在だと言うが本当にそうなのかと照会がありました。監察結果によると、稲田氏は13日に日報を再び探すよう辰己昌良・統合幕僚監部(統幕)総括官に指示します。
統幕は陸海空3自衛隊の統合運用を担う組織で、制服を着る陸海空自衛隊の「制服組」が中心ですが、「背広組」と呼ばれる官僚もいます。辰己氏は国会答弁などで防衛相を補佐する「背広組」でした。
辰己氏は12月26日、日報が統幕にもあったことを知ります。ところが稲田氏に報告したのは1カ月後の今年1月27日。統幕の日報は2月7日に公表されますが、稲田氏は10日の記者会見で「私の指示で探して見つかったならすぐ報告を上げるべきだった。関係部署を厳しく指導した」と不満をあらわにしていました。
その稲田氏がもし、陸自が不存在としていた日報が陸自にあったと2月13日か15日の会議で聞いていたのなら、覚えているのが自然です。国会では統幕の日報が公表された翌8日に早速質問があり、稲田氏は陸自の日報については「廃棄していることから不存在につき不開示とした」と答弁していますが、その修正を迫られる重い事実だからです。
稲田氏は当時、統幕に日報があったことについての報告の遅れを問題視し、防衛省で調査委員会を立ち上げようとして自民党の防衛相経験者らに「大げさだ」と反対され、諦めていました。陸自に日報があったという話を聞いていれば巻き返しにも使えたはずです。
では、「制服組」の陸上自衛隊の立場から考えると、どうなるでしょうか。
監察結果によると、陸上幕僚監部(陸幕)の牛嶋築・運用支援・情報部長が1月17日、陸自トップの岡部俊哉・陸上幕僚長に対し、陸自の複数の組織で日報が確認されたと報告し、「個人資料としてのデータを発見したとのスタンス」としながら「行政文書として扱い請求に対応すべきだった」と伝えています。
稲田氏との会議には、陸自から、2月13日にナンバー2の湯浅悟郎・陸幕副長が、15日に岡部氏が出ています。岡部氏は陸自の日報について16年11月に「不存在につき不開示」と稲田氏に上申した当人ですが、12月の自民党行革推進本部からの照会をふまえ、陸自で日報を再び探すよう指示。その結果が、実はあったという牛嶋氏の17年1月17日の報告でした。
これを稲田氏に伝えないままだと、1月20日からの通常国会で質問が出るたびに、陸自のせいで稲田氏がウソを重ねることになりかねません。岡部氏が抱いた切迫感は想像に難くありません。
会議には防衛省の「背広組」も出席していました。2月13日は統幕総括官の辰己氏、15日は「背広組」トップの黒江哲郎事務次官らです。2人は、落としどころを探っていたようです。
監察結果によると、陸自の日報に関する辰己氏の問い合わせに対し、1月27日に牛嶋氏から「個人データとして存在する」と回答がありました。辰己氏が海外出張中の黒江氏に相談すると、黒江氏は行政文書として公表にたえられるのかと指摘しました。そのため辰己氏は同日、稲田氏に会って統幕に日報があったと伝えた際、陸自に日報があったことは触れませんでした。
日報は統幕から2月7日に発表され、陸自にはいぜん「不存在」という答弁を稲田氏が8日にした後、15日に事務次官室で黒江氏と岡部氏が話します。岡部氏は陸自に日報があったと伝え、黒江氏は管理状況が不明確なので稲田氏に伝える必要はないと述べます。その後、2人は稲田氏との会議に臨みます。
黒江氏は、陸自に日報があったことをなぜここまで伏せようとしたのでしょう。監察の聴取に対し、黒江氏は「今までの説明を変えて、あえて混乱する必要はないと考えた」と語っています。
説明に関する混乱とは何だったのでしょうか。2月13日と15日の会議では、国会で野党の質問にどう対応するかが議論されています。思い当たるのは、まさにこの日報をめぐる当時の稲田氏の答弁が招いた混乱です。
昨年8月の防衛相就任以来、ぶれや失言が続く稲田氏の答弁は野党の格好の攻撃対象でした。とりわけ南スーダンPKOには、7月の自衛隊派遣先での大規模戦闘に加え、安全保障関連法で認められた新任務「駆けつけ警護」の付与もあって注目が高まり、稲田氏に質問が集中。答弁に窮した稲田氏の代わりに安倍晋三首相が答えることもありました。
そして、統幕にあった日報が今年2月に公表されると、それに関する稲田氏の失言が飛び出します。昨年7月の大規模戦闘に関して日報に「戦闘が生起」と記されていたことについて、2月8日の国会で「事実行為としての殺傷はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきでない」と答弁したのです。
政府は憲法9条に基づき武力行使を自衛のための必要最小限に限っており、「戦闘行為」がある場所でのPKOへの自衛隊派遣は、その方針に反する恐れがあるためできないという立場です。稲田氏の答弁は、「戦闘行為」がある場所でも目をつぶって自衛隊を派遣するものだと批判され、だから「戦闘」を報告する日報を当初は不存在として隠したのではないかという疑惑も呼びました。
もしこの時点で稲田氏が、陸自にはないと言ってきた日報について、やはりありましたと答弁を変えていたらどうなったでしょう。稲田氏の主導で「不存在」の日報を再び探し、統幕にあったので公表したとする「背広組」のシナリオが崩れ、逆に稲田氏はやはり防衛相の資質がないと野党が批判を強めることは必至でした。
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