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#16 ことばマガジン
太宰治の「桜桃忌」、実は命日じゃない? 当時の新聞を見てみると…
6月19日は昭和の作家、太宰治をしのぶ日「桜桃忌」でした。
6月19日は昭和の作家、太宰治をしのぶ日「桜桃忌」でした。太宰は1948年、東京都の玉川上水に身を投げて亡くなりました。いま訪れると水の流れも穏やかなこの場所を、どうして選んだのでしょう。また、19日が命日と思われがちですが、実際には何日に亡くなったのか分かっていません。当時の新聞記事も参考に、背景に迫ってみました。(朝日新聞校閲センター・有山佑美子/ことばマガジン)
晩年の延べ7年強を東京都三鷹市で過ごした太宰。自殺を図った玉川上水は、太宰が暮らしていた地の近くを流れています。
多摩川の水を羽村取水堰(せき)で取り込み、都心部に供給していた玉川上水。
現在はさらさらと流れるせせらぎですが、これは東京・新宿にあった浄水場の廃止(65年)で上水路の役割を終えたから。それ以前は水量の多い急流でした。
特に三鷹市付近は蛇行が激しく、水流で岸がところどころえぐられ、穴があちこちにできていました。転落するとなかなか見つからず、自殺場所に選ぶ人が後を絶ちませんでした。
この上水に身を投げた人は、48年の上半期だけで太宰を含めて16人にも上ったそうです。太宰の捜索中にも、5カ月前に身を投げた女性の遺体が発見されています。前の年は1年で33人でした。
「この土地の人は、この川を、人喰(く)い川と呼んで恐怖している」「川幅はこんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である」
太宰の短編「乞食(こじき)学生」(40年)には、玉川上水の流れの激しさがこのように描写されています。
太宰の家出が判明してから6日後の19日朝、上流で取水制限をして捜索しているさなか、一緒に入水した山崎富栄さんとともに遺体で見つかります。
身を投げたとされる場所から1キロほど下流の水底でした。翌20日の新聞記事によると、太宰は家出した日と同じワイシャツとズボンという服装、山崎さんは黒のツーピース姿でした。2人は腰ひもでかたく結び合った状態だったそうです。
くしくも遺体発見の19日は、太宰の39歳の誕生日でもありました。
太宰が亡くなったのは6月の何日なのか。はっきりとしていません。身を投げたとみられる13日夜ともされ、俳句の季語「桜桃忌」は13日を指すことが多いです。
一方で、太宰が生まれた青森県五所川原市(旧・金木村)は「戸籍上の死亡推定月日は14日午前0時」としており、太宰の妻・津島美知子さんも著書「回想の太宰治」で14日に死亡と記述しています。
16日の東京朝日新聞朝刊の記事には、見出しに「太宰治氏情死」とあります。太宰がすでに亡くなってしまったかのような印象を受けますが、記事を読むと、現場の状況から2人が心中を図ったと警察が認定し、玉川上水での捜索が始まったという内容です。
数日後に2人は遺体で発見されますが、記事の16日時点では安否は不明でした。
太宰が亡くなった翌年の19日、遺体が見つかった日と誕生日が同じ日であることから、この日に初めての「桜桃忌」が行われました。催しが回を重ね、19日が「命日」として浸透するようにもなりました。
「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の青森県出身の作家・今官一が付けました。亡くなる前月の太宰の短編「桜桃」と、彼の好物のサクランボにちなみました。
当初の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちがサクランボを食べながら思い出を語る場でした。次第に三鷹市などゆかりの地に人々が集まるようになりました。
太宰が眠る三鷹市の禅林寺では、毎年墓前に列ができます。今年は69回目の桜桃忌。「命日」かどうかにかかわらず、多くの人が太宰の鮮烈な生涯に思いを巡らせたでしょう。
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