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シリアで見た「雑過ぎる」国境線  陸橋くぐったら戦場だった…

よく見る町中の陸橋。これが政府側と反体制派の支配地域を分ける「境界」だった
よく見る町中の陸橋。これが政府側と反体制派の支配地域を分ける「境界」だった

目次

 普段、意識しない「国境」も紛争地では生死を分ける重要な境目になります。映画で見るのは土囊だったり塹壕だったりしますが…シリアで目の当たりにしたのは「マジか!?」と思うくらい「雑過ぎる」国境線でした。車に乗っていたら陸橋の先が「戦場」になり、ボロい布の先にはスナイパーが……。戦地の日常にあったのは、そんなリアルなボーダーでした。(朝日新聞国際報道部カメラマン・矢木隆晴)

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アーカイブいちからわかるシリア情勢

2017年1月、激戦地アレッポへ

 わたしは2017年1月6日、朝日新聞イスタンブール支局長(トルコ)の春日芳晃記者と一緒に、中東のシリアに入りました。目的地は、北部の街アレッポ。

 内戦前の人口は約300万で、人口規模なら大阪市(269万人、2015年)を超えるほどの大都市でした。広さも約190平方キロと、大阪市(225平方キロ)より少し狭いくらい。

 世界遺産のアレッポ城や大モスク、スークと呼ばれる巨大な市場などを目当てに、世界中から観光客がやって来る華やかな街でした。

 ですが、ここでは2012年夏頃から、政府に反対するグループとアサド大統領が治める政府側との間で戦闘が続いています。

 比較的貧しい地区だった東側や南側に反体制派が侵入し、支配地区を徐々に広げていました。おおまかに言うと、西半分を政府側、東半分を反体制派が取り囲むように戦っていました。

 政府側が2016年12月にアレッポ全土を掌握したことを受けて、取材ビザを取って、私たち2人が取材に向かったというわけです。

【関連リンク】多数の銃撃跡、崩れたビル…記者が歩いた激戦地アレッポ:朝日新聞デジタル

ホテルの窓からは世界遺産

 宿を取ったのは東西のちょうど境目にあるホテル。ロビーには、まだクリスマスのイルミネーションも飾られ、華やかな雰囲気でゲストを迎えていました。

 東向きだった私の11階の部屋からは、世界遺産「アレッポ城」などアレッポ中心部が見渡せる絶景が広がっていました。

ホテルの窓から見える、夕日に照らされるアレッポ城(奥)。周辺は「古代都市アレッポ」としてユネスコの世界遺産に登録されています。手前はドームが美しいモスクです。
ホテルの窓から見える、夕日に照らされるアレッポ城(奥)。周辺は「古代都市アレッポ」としてユネスコの世界遺産に登録されています。手前はドームが美しいモスクです。
画面中央部分を横切る幹線道路が「東西」を分ける境界だった。今ではサッカーの練習ができるほど、情勢は落ち着いていました。手前はホテルのプール。気温約4度前後とあって、泳いでいる人はさすがにいませんでした。
画面中央部分を横切る幹線道路が「東西」を分ける境界だった。今ではサッカーの練習ができるほど、情勢は落ち着いていました。手前はホテルのプール。気温約4度前後とあって、泳いでいる人はさすがにいませんでした。

 目の前の幹線道路が東西を隔てている「境界」の一つ。2年前にも取材した春日記者いわく、当時は近くの集合住宅からスナイパーが撃ってくるので、カーテンに隠れながら写真を撮ったとのこと。

 ホテルも東側から反体制派の攻撃を受けていて、ホテルの窓はバリバリに割れて、板で覆っていました。

アレッポの高級ホテル。銃撃で部屋のガラスは割れています。所々、板で覆われていました。発電機を回して、電気を使えるようにしています。
アレッポの高級ホテル。銃撃で部屋のガラスは割れています。所々、板で覆われていました。発電機を回して、電気を使えるようにしています。

 今では「境界」近くの競技場でサッカーや自転車競技を練習している人が見えて、隔世の感があります。

 西側の町中ではたくさんの車が行き交い、レストランも営業中。市場に行けば物資も豊富で、地中海からの魚も並んでいました。カフェでは水タバコを楽しむ市民もいて、この間まで、戦闘をやっていた街とは思えませんでした。

陸橋を越えるとそこは「戦場」だった

 到着した翌1月9日から12日までアレッポに滞在し、取材を続けました。

 1月10日にホテルから、東側の反体制派が支配していた地区に向けて車で出発した時のことです。幹線道路を走り、どこにでもあるフツーの陸橋が見えると、シリア人運転手さんがしれっと言います。「これが、ボーダーだよ」

「これが東西の境界だよ」とシリア人運転手が言う。町中にある、なんの変哲もない陸橋が、日常と非日常の境目だった。これを超えると風景は一変する。
「これが東西の境界だよ」とシリア人運転手が言う。町中にある、なんの変哲もない陸橋が、日常と非日常の境目だった。これを超えると風景は一変する。
陸橋を越えてしばらく進むと、破壊された車両や崩れ落ちた建物が目に入ってきた
陸橋を越えてしばらく進むと、破壊された車両や崩れ落ちた建物が目に入ってきた

 境界を越えて東側に入ると、風景は一変。500メートルも進むと、そこからは、空爆や砲撃で破壊された建物が次々と現れました。

 全壊した建物も珍しくありません。大部分の建物が被害を受けていました。連続した日常の風景の中に、「境界」がありました。言われなければ気がつきません。

 家々のベランダを見ると、なぜか怪しげな布がつり下げられています。戦闘中は、そこら中にスナイパーがいたから、住民は撃たれないように目隠しで布をかけておいたらしいです。これがアレッポでの生活のルールだそうです。

 しかしなぜ、西側と東側はこんなに状況が違うのでしょう?  答えは、政府軍が徹底した空爆を東側の反体制派に加えており、さらにロシアの支援を受けて、ロシア軍による攻撃もあったからです。

 政府側が抑える西側にも建物の被害はありますが、東側ほどではありません。

 反政府派(自由シリア軍など)と言っても、戦争が始まるまでは、その辺で働いていた普通のお兄さんやおっちゃんが戦闘に加わることも多いのです。

 同じシリア人同士が、血みどろの殺し合いをしたと聞き、恐ろしい気持ちになります。

 シリアでは大人の男性は、一般的に徴兵制で兵士にならざるを得ません。人を殺したくないという理由でやむを得ず海外に逃れる男性も多く、シリアに残した恋人と離ればなれになって会えない「遠距離恋愛」のカップルもいるのです。

 戦争はいろんな関係を引き裂いていくものだと感じました。

ボーダーも色々……「布」も?

 戦場と日常の境目には様々な形があります。シリアで何度か取材をしたわたしは、他にも「変わった」ボーダーを見てきました。

 2015年1月、トルコ南部からシリア北部の街アインアルアラブ(クルド名でコバニ)を訪れた時には、2カ所の「鉄の扉」を通りました。高さは2.5メートルほど。電気柵も有刺鉄線もありませんが、これはれっきとした国境。

 トルコ側には入国管理の担当官がいました(が、シリア側はいませんでした)。同僚と共にトルコの担当者にパスポートを預け、約100メートルの「緩衝地帯」を歩いてシリアに入りました。

 ここに広がっていたのも、空爆などで破壊され尽くした町でした。

2015年1月、トルコ南部の町の国境ゲートに報道陣が集まる。トルコ側の担当者がシリア入国の手順を説明する。中央奥に見えるのがシリア北部アインアルアラブ(コバニ)の町並みだ
2015年1月、トルコ南部の町の国境ゲートに報道陣が集まる。トルコ側の担当者がシリア入国の手順を説明する。中央奥に見えるのがシリア北部アインアルアラブ(コバニ)の町並みだ
トルコ側から緩衝地帯を抜けて、シリア側の国境ゲートを歩いて超える報道陣。土のうが積み上げられ、クルド人の民兵組織が警備していました。建物は空爆や戦闘の被害を受け、激しく破壊されています。
トルコ側から緩衝地帯を抜けて、シリア側の国境ゲートを歩いて超える報道陣。土のうが積み上げられ、クルド人の民兵組織が警備していました。建物は空爆や戦闘の被害を受け、激しく破壊されています。

カーテンの向こうにISが

 わたしが最も「気味が悪かった」というのは、シリアの首都ダマスカスの郊外にある難民のためのヤルムークキャンプ。キャンプ内では、過激派組織「イスラム国(IS)」と政権側がにらみ合っていました。

 シリア情報省職員の同行の下、政権側がコントロールしていたエリアを、約30分間だけ取材をしました。「それより向こうはISの支配地域。スナイパーがこちらを狙うかもしれません」と指さした先には、一枚のカーテン。大きな布がワイヤ-につるされています。

「カーテンの向こうにはISのスナイパーがいます」。同行したシリア情報省職員が言う。2015年5月、シリアの首都ダマスカス郊外にある「ヤルムーク難民キャンプ」の大部分は過激派組織「イスラム国」(IS)などが支配していました。難民キャンプといっても集合住宅が連なる普通の町並み。政府側との戦闘で建物は崩れ、外壁には焼け焦げた跡が残っていました。
「カーテンの向こうにはISのスナイパーがいます」。同行したシリア情報省職員が言う。2015年5月、シリアの首都ダマスカス郊外にある「ヤルムーク難民キャンプ」の大部分は過激派組織「イスラム国」(IS)などが支配していました。難民キャンプといっても集合住宅が連なる普通の町並み。政府側との戦闘で建物は崩れ、外壁には焼け焦げた跡が残っていました。

 これが、「越えてはならない一線」だったのです。

 日常と破壊、生と死、安全と危険。紛争地域における境界とは、あまりにも簡易的で頼りない「ボーダー」で分けられていたのでした。

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