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梅田スカイビル、なぜいま人気? ラピュタがルーツ、ぶっ飛んだ思想
大阪・キタにそびえ立つ梅田スカイビル。2棟のビルをつなぐ世界初の連結超高層建築として23年前に完成以来、すっかりランドマークとして定着しています。来場者は今年130万人を超え、過去最高を更新する勢いです。独創的なビルのルーツには「ラピュタ」や「空中庭園」への憧れがありました。舞台裏を知る建築士に人気の秘密、誕生秘話を聞きました。
梅田スカイビルは1993年3月に完成。来場者数は翌年、年間100万人を超えたのをピークに一時は45万人まで落ち込みましたが、なぜここまで復活できたのでしょうか。理由を探ろうと、10月中旬の週末、夕方の空中庭園を訪ねました。
夕日が沈む午後5時過ぎ、屋外の展望台には人だかりができていました。自撮り棒を手に写真を撮ったり、恋人と肩寄せ合ったり……。聞こえてくる会話に耳をすますと、ほとんどが外国語です。
右肩上がりに転じた大きな要因は、外国人観光客です。ビルを運営する積水ハウス梅田オペレーションによると、今では来場者の6割以上を占め、欧米のほか韓国・台湾・中国などの訪日客が激増。「ピークは閉館間際の夜9時ごろ。色々な所をめぐって最後に夜景を見に来る方が多い」といいます。
きっかけは2008年5月、英紙タイムズに掲載された記事でした。インドのタージマハル、イタリアのコロッセオ、カンボジアのアンコールワットなどと並ぶ「世界の建物トップ20」に日本で唯一選ばれたのです。それが海外の旅行誌ロンリープラネットでも紹介され、人気に火がつきました。ネットやSNSの口コミで訪れる人も急増しています。
梅田スカイビルは地上40階、高さ173メートルで総工費750億円。2棟のてっぺんに空中庭園を冠した独特の外観は「未来の凱旋門」とも評されます。
デザインしたのは、のちにJR京都駅ビル(1997年)や札幌ドーム(2001年)なども手がけた著名な建築家・原広司さん(80)です。展望台の開業当時、原さんはこう語っていました。
「夢のある時代だったからこそ、生まれることができた超高層建築。完成した頃にバブルが弾けたわけで、奇跡のようなタイミングでした」
そう語るのは、原さんの下でコンペや設計監理を担当した1級建築士の中谷俊治さん(52)です。
計画はバブル景気のまっただ中。事業主の社員は多くが20〜30代で、工場跡地に「インパクトある大阪の新名所をつくりたい」という熱意に燃えていたといいます。若手建築士だった中谷さんにとっても、初めての巨大プロジェクトでした。
当時は機能性重視で、どれもよく似た箱形のインテリジェントビルが世界の最先端でした。「優等生な考え方なら、あのユニークなデザインは絶対に生まれていなかったでしょう」と中谷さん。
映画好きだった原さんの着想を刺激したのは、ちょっと意外な作品でした。超高層ビルの大火災を描いたパニック映画「タワーリング・インフェルノ」(1974年)です。どんなビルの形にするか悩んでいた88年7月、ビデオを見直したそうです。
「中谷、すばらしい案が思いついたよ。どうだ、いいだろう」。映画をみた翌日、原さんは得意げに鉛筆のスケッチを見せました。まさに、スカイビルの原型がそこにありました。
もし隣のビルとつながっていたら、逃げて助かったのに――。そんな感想が空中庭園のアイデアを生むきっかけになったそうです。
発想を形にした構造設計家も「ビル同士が『手をつなぐ』ことで安定性が増し、地震の揺れにも強い」と認めたといいます。最上部に加え、実際のビル22階には災害時に避難路となるブリッジも架かりました。
もともと原さんの心の奥には空への憧れがあったはず、と中谷さんはいいます。原さんは70年代、バビロンの空中庭園伝説が残る中東を旅したほか、83年の建築誌の対談で「建築を始めた頃から、私の意識にはスウィフトの『ガリヴァー旅行記』のラピュタ島が常にあった」と話していました。
また原さんは89年1月1日の朝日新聞に「TOKYO空中庭園」と題し、無数のビルを連結した未来図を寄稿していました。まるでスカイビルですが、まだ完成前のこと。建築家が東京の都市再生を提言する正月企画の一つでした。
原さんを師と仰ぐ中谷さんは今秋、最上部39階のリニューアル工事に関わりました。その際、誕生以来あまり知られてこなかった事実に光を当てました。空中庭園に開いた直径30メートルの「穴」の秘密です。
最上部は2棟が建ってからワイヤでつり上げる当時世界初の「リフトアップ工法」でつくられたため、もちろん軽量化の目的がありました。階下に日陰をつくらないための採光性も理由です。ただ、実用面だけではありませんでした。
すり鉢状の穴、じつは宇宙船が飛び去った跡をイメージして設計されたそうです。その名も「空中クレーター」。空想上の宇宙船まで図面が引かれ、東西1階エントランスの天井照明に遊び心でひそかにデザインされていたそうです。
新装された39階は白いアクリルボードが敷かれ、近未来的な雰囲気です。前は店舗で遮られていた窓側が1周67メートル、初めてぐるりと歩ける回廊になりました。入り口には宇宙船の図面や、中谷さんによる解説文が4カ国語で飾られています。
敷地東側1階にはインフォメーションセンターも新設されました。原さんの代表建築やファーストスケッチ、当初構想された3棟合体型の模型、リフトアップ工法の映像を見ることができます。
ビルの運営会社は「社内でも建設当時を知る世代が少なくなってきました。ここからビル誕生の歴史をしっかり伝えていきたい」と話します。
センターの設計も担当した中谷さんは、こう言います。「当初は外観や工法へ関心が集中しましたが、海外の注目もあって、ようやく設計者の思いや物語性に光が当たる時代になったのだと思います」
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