お金と仕事
高級ビニール傘、売り切れの理由 皇族の注文で脚光 老舗守った国産
使い捨てのイメージが強かったビニール傘ですが、ここ数年、デザイン性や耐久性が高い商品が注目を集めています。約60年前、ビニール傘を開発したのは、意外にも江戸時代から続く老舗メーカー。安い海外産に押され、ほとんど売れなかった時代も守り続けた技術が、皇室からの注文で息を吹き返し、今では1本5千円以上の商品が数カ月待ちという状態に。高級ビニール傘にこだわる理由を聞きました。(朝日新聞社会部記者・仲村和代)
昭和20年代まで、傘は綿が主流でしたが、水が染みたり、色が落ちたりといった苦情が耐えなかった。そこで父が、傘を守るためのビニールカバーを考案。飛ぶように売れ、店の前には長い行列ができたそうです。これがビニール傘開発の発端でした。
昭和30年代になるとナイロン傘が普及し、傘カバーが不要に。そこで、骨に直接ビニールカバーを張ることを考えたのが、皆さんご存じのビニール傘の最初です。
ところが、傘業界からは「とんでもない」と猛反発を受け、傘屋さんも百貨店も扱ってくれなかった。そこで仕方なく、アパレルなど異業種の店に頼んで、売れたらお金をもらう委託販売から始めたんです。
ミニスカートの女王「ツィッギー」をイメージした柄も作られました。子どもながらに、将来的にはパリでファッションショーに出るんじゃないかとか、そんな夢を描いたものです。
多い時は国内に50社ほどあり、組合もありました。ところが昭和60年代になると、中国で量産された品が入ってくるようになり、国産は激減。手作業なので、人件費が20分の1という状態では、とても勝負にならなかったんです。
当時、僕は野球用具メーカーに勤め、米国で駐在員もしていた。親父から何度も手紙が来て、「もうつぶれる」「跡を継いでくれ」と。つぶすなら自分の代しかないと、覚悟を決めて戻ってきました。その頃、売上の8割はビニール傘でしたが、数年後には2~3割に。半年で売り上げが半減し、同業者が次々に辞めていきました。
ビニール自体は本来強いもので、作り方で強度やコストにさほど差は出ません。値段を抑えるために、骨の品質を落とした商品が増えていきました。使う方も、安いからすぐ壊れてもいいか、という感覚でしょう。こうして、ビニール傘は「壊れやすい」というイメージができました。今の若い方は、そういうものだと思っているでしょうね。
ものづくりの職人としては悔しいというより、あっけにとられて何もできない状態でした。フィルムカメラがデジタルに替わったのと同じような感じではないでしょうか。
伝統文化に根ざした技術なら、周りの人も理解できただろうけど、周りの人も何でこだわるの、という感じでした。
でも、父が開発して一斉をふうびし、ビニール傘そのものは評価されてどんどん増えているのに、我々が取り残されている。いつか、我々の出番が来るんじゃないかという望みみたいな、ある種の執念のようなものです。一般の人が辞めていくものにしがみつく美的価値を感じた。へそまがりなんでしょうね。
そうやって二十数年、耐える時代が続きました。再評価され始めたと感じたのはここ5~6年。一番のインパクトは2010年、皇室からのご注文があったことです。その前も兆しはあったかもしれないけど、残念ながら気がつかなかったし、方向性がわかったとしても受け入れられなかったと思います。
何でも使い捨て時代ですから。こだわったものが評価されるようになったのは、高齢化や社会的環境の違いもあると思うので、20年さかのぼってやればよかったというものでもないと思います。
うちの社から見れば、過去の遺物なんですよ。我々が散々やってきたことで、その先も見えている。不良在庫と、売れるものの相克です。売れるものばかり作ってると他社との競争ができないし、差別化しようとすると在庫が増えていく。
うちは透明の無地にこだわっています。透明の傘は前が見えて安全だけど、すぐ壊れちゃうから買いたくない、という方が、探し求めて来られます。いま、作れる量が年間1万5千本。それを売り切って終わりです。人気の商品は数カ月待ちで、何とか解消すべく努力をしています。
とはいえ、パイはまだ小さい。主需要はコンビニの傘で、我々はすき間というか、おまけみたいな需要。でも、それが結構根強くて、将来的には増えていくとみています。
伝統工芸として指定されるには、100年前もその技術があったことが条件なので、あと40年とすると、僕の目の黒いうちは無理ですね。でも、目指したいのはそこじゃない。むしろ、「ホワイトローズ」としてブランディングできればと考えています。
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