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3千軒のスナックで、レコード手売り 冠二郎が味わった地獄の10年
アイドル志望だったはずが、演歌歌手へと急ハンドルをきった、我らが冠二郎さん(72)。デビューという夢をつかみ取ったはずが、待ち構えていたのは長い長い下積み生活でした。サバ(年齢詐称)に、ズラ(カツラ疑惑)、ヨメ(31歳差婚)と、どうしてもネタが先行しがちな二郎センパイですが、やっぱりカッコイイのは、その生き方です。(朝日新聞文化くらし報道部記者・岡田慶子)
【三船裕幸(みふね・ひろゆき)】
【若月四郎】
【冠二郎】
デビューにあたって、三つの芸名の中から、“男らしさ”で選ばれたのが、冠二郎でした。
このとき、姓名鑑定士はこう言ったそうです。「この子はね、若いときは売れない。売れるのに10年かかるよ」
センパイはその後、この言葉通りのキャリアを歩みます。
23歳のとき「命ひとつ」(1967年)でデビューしたものの、10年間は鳴かず飛ばず。
全国約3千軒のスナックや飲み屋を回り、自らレコードを売り歩きました。1軒で買ってもらえるのは、せいぜい3、4枚。スタッフと二人三脚で、午後7時から深夜2時まで、多いときは一晩に27軒をハシゴすることもあったそうです。
キャバレー歌手としても働きました。しかし、ギャラはほとんどなく、師匠の肩もみや、師匠宅の掃除をして小遣いをもらっていたそうです。
「『○○の冠二郎』というのがない、ヒット曲がない男の歌い手はつぶしが利かない。そんな記事が出るんです。それを体感しましたから。寂しい思いをしました」
古巣のコロムビアに戻り、「旅の終りに」(1977年)がミリオンセラーになったのは、32歳のとき。腐らずもがき続けたからこそ、つかめた成功でした。
「それまではレコード店に行って、たった1枚あるレコードを一番手前に置いて、『何とぞ売れますように』って手を合わせて。有線放送にもこっそり自分でリクエストしてさ。それが『旅の終りに』がヒットして全国に行ったときは、冠二郎コーナーがあって。箱が二つも三つもあって。これ、売れなかったらどうしちゃうんだろうって。今度は怖くなった」
振り返ると「地獄のようだった」下積み時代ですが、センパイは「あれは俺の黄金時代だと思ってる」とも言います。
「マネジャーは、ヒットが出たら人間変わるんじゃないかと思ったらしいんだよね。ところが変わらなかったって、そう言ったんだよ。俺の場合、いばれるような状況じゃなかったんだよね。10年があまりにもつらかったから」
「あの10年で、人を見ると声を出すより先に頭を下げる習慣がついて。それが低姿勢って、かわいがられた。俺そんなつもりじゃないんだけど、やっぱ黄金時代があったから、いまがあるんだなあ」
「冠二郎のすごすぎる人生」は5月21日発行の朝日新聞夕刊紙面(東京本社版)「ココハツ」と連動して配信しました。
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